春の絵画的談話〜山田玲司先生と〜
*メルマガアーカイブ(20223.31)
桜が咲いてますね〜〜。
みなさまのお住まいの地域はどんな感じでしょうか。
春になると肌が乾燥して花粉で目がかすんでたっぷり寝てもまだ眠くて、いろいろなことがめんどくさくなり1日の生産性はグッと下がり、やることが終わる前に動物の動画とか見はじめちゃうダメな私ですが、そんなダメな私を「そのままでいいんだよ」とまるごと肯定してくれる満開の桜です。
(前向き)
先日、山田玲司先生との対談(ディスカバリーレイジチャンネル)の収録がありました。1月にお会いして以来の収録だったのでちょっと久しぶりでした。
対談内容は、徒然なるままにお話した感じで、まず玲司先生が4月に開催される絵の個展について、テーマについてを伺えたりしました。
「宗教改革」というテーマだとツイートされていて、「おお〜〜」と思った私だったのです。
玲司先生は常々「歓喜天」を独自の感性で描いてらして、それはいわゆる(一般古典的な)宗教画なニュアンスではまったくない自由さと、現代の私たちが見た時にいわゆる(これも古典的な意味での)宗教っぽさが与える、こちら側が勝手に刺激される「構え」って言うのかな、そういうものが起こらない、広がりを感じます。
例えば西洋のゴリゴリ超絶技巧のキリスト教絵画なんかを観た時に、なんかすげーーー、まず絵うますぎ!細かすぎ!リアルすぎ!みたいに圧倒されるけど、画題となっている聖書の物語を知らないとか、頭に輪っかがあるから聖人なのはわかるけど誰なのか知らない・・・「という自分を意識してしまったりする心の動き」って、ちょっと起ってしまったりするじゃないですか。宗教画ってそういう「知ってるから感じるもの」もやっぱりあるわけです。まあ布教目的だったり信仰心を鼓舞する目的もある作品も多いから、そりゃそうだよね。そして「知らない」で観るおもしろさや楽しみ方ももちろんあっていい。
玲司先生の描くものは、ボーダーのない「宗教画」のように私には見えて、「無分別の広がり」を心に与えてくれるという意味で大きな意味での宗教性を感じます。
というのも、人生経験の深みですよね、やっぱり。
たくさんの事を経験してきた中で、考えて考えて考えて生きてきた人が描いたもの。
それが玲司先生の絵には「人間賛歌」として出てくる。そこがとても好きで、シンパシーを感じるところなんだなと思います。
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山田玲司先生の個展は4/8〜4/17の会期で開催されます♪
場所は東京・渋谷のJINNAN HOUSEです。
そんなわけでインド哲学というより座談的な回になったのですが、玲司先生とお話できてとても楽しかったです。
で、収録こぼれ話なのですが、毎回カメラがまわっていない時に非常におもしろい話になる私たちw
前回お会いした時も、そして今回も、インドの思想における「我(自分)」ってなんだ、というところに話が及び、インドだけで見てみても「自己」なるものの定義や、ひいては「魂」的なものの定義はかなり多様で、という話をしました。
同じように、一言に「輪廻転生」とか「因果応報」とか言いますが、「自分」なるものの定義が変われば、「誰が輪廻するのか」「誰に業が返ってくるのか」というところも変わってくる、というお話で。インドにおいてメジャーなものからマイナーなものまで色々あるのです。
その「マイナーなやつ」の中に私のお気に入りの思想があったりして(笑)、その話でおおいに盛り上がったりしました。
次回の収録ではそのあたりをちょっとまとまりのあるカタチでお届けしようと相成りました。
ディスカバリーレイジチャンネルをご覧になっている皆様に楽しんでもらえたら嬉しいので、あっちこっち行きすぎないよう話せるように次回までにまとめますw
何が嬉しいって、
古代の思想・・・実際、現代のこの即物的な世界だけで考えればですね、
「それを知ったところでどうなるさ」
って言われたら、「そうですねwww」っていう話もいっぱいあるのです。
だからこそ研究なんですけどね。だからこそ学問なんです。
私にとっても山田玲司先生にとっても、「隠されたエッセンス」を探すのが三度の飯くらい好きなわけです。
答えのない話も全力で受け止め、そして自分の中でさらに豊かで鮮やかなものにして見せてくれる、そんな玲司先生の懐の広さがいつも嬉しいです。
ナマステ
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