苦のない神々、決める人間

(2024.7.20メルマガアーカイブwww.heartmatrix555.com



暑いですね。もう日本の企業や会社は強制お昼寝制度を導入したほうがいいと思います。出社したらまず休憩とかね(笑)



さて、最近いただいた質問に答えようと思います。

Q:人生を楽しむにはどんな心がけができるでしょうか。
というのも自分の好きな発信者(youtubeとかSNSとかで発信している人)はよく、苦しいこととか、大変なこととか、いろいろあるけどでも「楽しもう!」という事を言います。生きずらい世の中であることは認めたうえで、それでも自分の人生なんだから楽しもうと元気づけてくれているのはわかるのですが、楽しむというのがよくわからなっています。大変なことや、苦しいことを楽しもうとしても実際そんなに楽しくなくて、うまく楽しめない自分がいけないのかなとか思ってしまったりします。


お返事:
考え方の整理として、「楽しむ」ということと「楽しいという感情がある」をごちゃごちゃにしないで考えてみるのがいいかなと思いました。

「楽しもう」という提案が「楽しい」と感じる「感情」が湧いていないといけないんだとすると、ちょっと無理がある提案になってしまうようにも思います。おっしゃる通り、その人にとって苦しいことをしている中で、無理に「楽しい感情」を持つのは厳しい場合が多いかと思います。苦痛を好む性癖がある人はいいのかもしれないけど(笑)、普通、苦しいはいやですよね。


本心を騙して別の感情を添加物のように加えることを繰り返していると、心はいつか機能がおかしくなると思います。人生いろいろなのでたまにはそういう踏ん張り時があったとしても、終わりも見えずにそれがずっと続くかのような状況は病みますし健康的ではないかなと。また「ずっと続いているもの」というのは本人の長期的な「選択」の話になってくるんだとも思います。


人の心には、「終わりの見えていないもの」って毒になってくるんじゃないかと思うんですね。

「この面白くない感覚がいつ終わるんだろう」とか、「この好きじゃない状況は今のところ終わりが見えない・・・」となると心は非常にストレスを感じます。「いつかよくなる」みたいな漠然とした「いつか」を見据えていられるほど、平和な時代に命の危険や衣食住の究極的な不自由なく生きた現世代人には、そこまでの胆力がないように思うのです。


毒、という表現をしたのは、これは「良いこと(好ましいこと)」にも言えるからです。つまりある時期においては自分にとって好ましいことでも、それが「ずっと続く」と心は麻痺してきて、つまらなく感じてきます。楽しいという感覚は起こりにくくなるもので、時期がきたら(総取っ替えでなかったとしても)新たな刺激を入れて活性化し続ける必要が出てきます。既知のものを安全だからと言ってずっと維持しようとすると、それが心の中で毒になっていくんでしょうね。安全の代わりに心の不活性が続き、代謝しないと「最初は良かったもの」も毒素になり、排泄できないんでしょう。

なので「無変化」を維持しようとしないで「新陳代謝を維持する」必要が、人の心の「楽しさ」という部門に関してかなり拘っているんだと思います。



■デフォルトで楽しい神々

ちょっと壮大に横道に逸れますが。

インドにはいろんな神様がいるのですが、それは「デーヴァ」と呼ばれていて、仏教のほうでは「天」と呼ばれています。それらの神々はいわゆる全知全能の創造主的な唯一神(God)ではなく、デーヴァは私たち人間よりもエネルギー(徳)の保有量が桁外れに多くて、その膨大なエネルギー(徳)のおかげでそれぞれの特殊技能(神通力ってやつですね)が高度になっている存在、という感じです。デーヴァは生死を超えた絶対普遍の存在ではなく、ちゃんと寿命があります。それも何百年から何千年など桁外れに長いのですが、いつか死ぬ存在です。徳を使い切ると寿命がきます。寿命が尽きると(インドは輪廻の世界観なので)別の生類に生まれ変わります。その点では人間と同じで、デーヴァはまだ「輪廻」の中にいる存在なんですね。


デーヴァ界と人間界のもっとも大きな違いは、デーヴァには「苦しみ」がないことです。人間はいろいろなことに苦しみますが、デーヴァはやはりそのエネルギー(徳)保有量の高さのため、苦しみを感じません。


これは私なりの説明になりますが、デーヴァって、自己存在に疑念がないんですね。これもエネルギー案件で、デーヴァは、これまでの生において徳を積んだ存在で、徳のエネルギーに満ち満ちているため、「自身を疑う」という意識が起こってこないのです。ピッカピカのハイスペックボディーにハイオク満タンって感じで、あと500年は全力で走れまっせ〜〜故障なんてないぜ〜!というような存在なのです。


それと近い感じの人があなたの周りにもいないでしょうか。エネルギーが多くて自己肯定感が高い、「自己否定がない人」。否定がないからわざわざ肯定する必要もないってことです。神っぽいね。


人にも一時的にこういう時期はあります。神になっちゃう時ですね。例えば恋愛初期とか、大好きな人と付き合いたての時期とか、そんな感じの無敵感。十代から二十代にかけて身体的にパワーが満ちている時は根拠のない自信が溢れ、自分の存在を否定したり疑問に思ったりしなくてよかったりします。(年齢的な若さだけでなく、とにかく体が丈夫がゆえに気力が溢れている人もいますね。)デーヴァという神々は状況に関わらずずっとそんな感じの自己疑念なき存在で、まあ単純って言えば単純ですよね。


もうひとつ言うならデーヴァは壮大な「過集中」です。例えば火の神なら「火」というエレメントにずっと疑問なく集中し、その形態を維持していられます。風の神にしろ、法の神にしろ、富の神にしろ、自分が担当しているエレメントやアスペクトのルール(摂理)に疑念なく集中している存在と言えばわかりやすいかと思います。



シヴァ神は修行の神で、たまに人間や他の神々と関わったりしますが、基本それ以外の時は修行がライフワークで「なぜ修行をするのか」とかは考えません。「俺と言えば修行」的な感じでしょう(笑)、いいですねインドの神って。


ダルマ神というのは正義(秩序)の神で、やはり正義(この世界のことわり)に終始徹しています。なのでぜんぜん融通が利きません。


カーマ神は愛(エロス)の神で、誰かと誰かをくっつけたりすることに疑いなく邁進しています。それで時々余計なことをして怒られてひどい目に遭ったりするのですが、それでも自分の属性や行為の方向性を変えたりはしないんですね。


美の神は美に徹してますし、音楽の神はずっと音楽してます。とある経緯で芸能&音楽の神がある島の政治的トップになってしまった時、家臣の神々もその島の民もみんな歌手や役者になってしまって、エンタメ性は上がったけど軍力が下がり、簡単に制圧される場所になってしまった的な神話もあったりwww



ポイントとしては、神々は「考えのうえ」でそのようにしているのではなく「性質のうえで」そうしていられるんですね。怒られそうな言い方をすると、哲学はしてない(笑)。

そういう意味で神々は基本「楽しんで」おられる。





■まずエネルギーだと思うよ

なぜこんな話を出したかというと、このインドの神々デーヴァの話から考えられることがいくつかあります。


ひとつは、エネルギーに満ちていると自分の性質のままに過ごすことができ、そしてそれは「苦痛がない」という意味で楽しいと感じることができます。ですので「何か」が楽しいのかというよりも、曇りなき自己感覚が「楽」というデフォルトになる、ということです。なので人間にとっては大問題な状況でも、神々は平然と自分の役割を遂行し、それで悩むことがありません。


質問内容の中にあった「楽しもう!」というメンターたちからの提案は、「そのことを感情として楽しもう」という意味だと捉えると、その時自分の心身のエネルギーが少なかった場合、これはちょっと楽しめませんわ・・という気持ちにもなるのは当然だと思います。


「そのことを楽しむ」前に、自分のエネルギーを高める必要はあるんじゃないかなと思います。もちろん「楽しめば」エネルギーが高まる、という流れもありはしますが、難しく感じたら「そのこと」でエネルギーを生み出さなくてもいいかと思います。


そういった解像度から「楽しもう」を再解釈すると、

「まず自分のエネルギーを高めよう」

となり、それは場合によっては

「ちゃんと休憩とかしよう」
「しっかり寝よう」


みたいなことになる場合もあるかもしれません。


自身の中にしっかりエネルギーがあれば、「おれ=楽しい」というデーヴァ的楽しさも湧いてくるかと思います。





■締め切りとか卒業とかが必要

二つ目として「終わりを作る」だと思います。

冒頭で、「終わりの見えていないものって毒になってくる」という見解と、「【楽しむ】ということと【楽しいという感情がある】を一旦区別してみよう」と言いました。

終わりが見えていない、どこまで続くのかよくわからないことって、それが当初楽しかったことであってもだんだん心に毒素をもたらします。

先のデーヴァたちは、膨大な徳エネルギーと個々の性質上で「苦しみはない」がデフォルトになっているんですが、人間は「終わりが見えないもの」にずっと心を活性化させ続けることが難しい存在です。逆に言うと、自分の中でゴールとか、意義とか、目標とかを持つことができれば、その「決心」でエネルギーを高めることができる。これが人間のすごい強みです。神々にはこれがないんですね。(性質上の目的や使命はあっても、性質上なので神々が自分の意志では決めていません。)


未来に目標を決めよう。そしたら楽しめる可能性はぐっとあがります。ここで言う未来というのも、自分がリアリティを持って想像できる未来であれば機能すると思います。1ヶ月後なのか一年後なのかは想像しやすいところで。遠く感じる未来にはしないほうがいいと思います。


自分で決めた目標がある苦しさや大変さは、楽しめると思います。
自分で決めた目標やゴール設定のない苦しさは、単に苦痛だと思います。



で!
そのように解釈してみても「なんの目標もゴール設定も浮かんでこない・・・」という事柄でしたら、もう早めに「それを辞める日」を自分で決めよう(笑)。その決意と決定が心を活性化させてくれるはず。人って、「決めていない自分」に苦しんだりする時間がけっこう長いですから。



決意とか言うと、昭和マインドっぽいかしら。


ん〜〜でもわりと普遍的な心理かと思います。
この先の未来もっと技術が発達して、なんでもAIやコンピューターがやったり決めたりしてくれる時代になって、人が「自分に関して」なんにも「決定」しなくなったとしたら、たぶん「退屈」を理由に自死を選んだり、精神を病む人が膨大に発生して社会問題になるんじゃないかな。とか思ったり。
だから「めくるめく決定」を体験をさせてくれるゲームとかが今よりももっと大流行して、仮想世界で自己決定を味わうようなディストピアに・・・あ、もうそうなってる? ある領域ではもうなってるね。


「決心」はパワーで、「楽しむ」というのは「主体性を持つ」という話なんだと思います。そしてそれこそ人間が使える心と行為の力だと思います。



神々は、過去に積んだ徳エネルギーを運用して「苦のない生」を謳歌していますが、苦しみがないので疑問を持つことも、反省することも、自分の行いを変えることもない存在です。なので、新たに徳を積むことができません。持ってる徳を使い切ったら寿命が来て別の生に転生です。でも人間は、苦労があったり、自分自身に疑問を感じ迷ったりする分、再び決心して行動を変えることができるので、そうやって新たに徳エネルギーを充填(増量)することができます。神々は途中に給油ポイントが(例外はあるけど)ほとんどないんですが、私たち人間は自分で決心した時に自家発電でチャージできます。これは大きいですよ。



■主体性の話なのかなと思う

私が感じるのは、「楽しむ」っていうのは「楽しいという感情を感じるようにしむける」ことではなく、「思った通りにいかないであろうことに覚悟を決めること」と言ってもいいと思います。そうすると楽しめるエネルギーが充填されます。


よく「許す」とか「あらがわない」というような「ピース」な発想が勧められる論もありますが、たしかにそれも大事なんですが、これってその人のコンディションや内容によっては自尊心の低下につながる場合もあると思います。

決意=あらがい、ではないんですが、でも長いものに巻かれっぱなしだったり、状況に任せっきりという意味で主体性を欠いてしまうと、波風少ないという意味で平和だったとしても、何もしていないのに疲れる休日がずっと続くというブヨブヨな平和になってくると思います。


なので、大事なことは自分で決めよう。
すると楽しめる視界がひらけてくると思います。


もちろん、単に感情として「楽しい」と思うことがあるのもとても大事だと思います。ええ、大事です。そうやってひととき「今最高!あたし最高!」とデーヴァごっこをして英気を養い、人間としては「決心」を更新しながら行為を伴わせていきましょうぞ。


これを読んで「おお」と思った人は、心に開いたそのスペースが閉じてしまう前に、目標、ゴール設定、決心、そういった自分の今現在の意志を書き出してみるといいと思います。

そうしないと、閃きによって開いたドアってすぐに閉まっちゃうんですよね。

思ったら吉日。
こういう事は急ごう。


ナマステ
絵美里

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