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私たちの行く道に広がる歴史


昨今の世界情勢に不安や悲しみを感じたり、怒りや憤りを感じ、悲惨な映像を含めるおびただしい情報に心が疲れてしまったりしている人が多いのではないでしょうか。

そのことに触れておかないと、と思った次第です。


今後どうなるかはわかりませんが、今現在、物理的な抗争の渦中にいるわけではない日本の私たちができることや、ここで取れる姿勢とはなんでしょうか。もしそのような問いに私なりに考え答えるとしたら、戦争および暴力行為に強く反対する意思を持つことだというのは大前提とします。どんな理由があろうともそれらを肯定できません。


しかしすでに始まってしまった武力による弾圧と抗争。それを知りながら一個人として直接的には手が届かない現状。そして私たちには私たちの日常が、いぜん続いていく。そんな中、何ができるでしょうか。個人の状況により可能な行動や働きかけに違いは出てくるかと思います。


しかし多くの人に共通して「向かい合えること」はあると思います。
それは世界の歴史を今一度学び直し、どうしてこんなところまで来てしまったのかの複雑な理由を多角的な視点で知っておくことだと思います。
各民族、各国が有史以来現在に至るまで経験してきた事と、それらが織りなす膨大な因果が今現在に繋がっていてます。それらを可能な限り直視することが、出来ることのひとつだと思います。
これを放棄してしまうと、メディアが放つ(多くは偏った)情報に翻弄されるだけでなく、自分自身の思考に対して責任を放棄したことになり、それは集合体全体としての愚鈍化をエスカレートさせていきます。そしてそれは間接的に、今起こっているような愚かな行為を助長させる下地になってしまうのです。知らないし、知る努力もせずに物事を見て決めつけるのも、ある種の暴行です。


暴力の対極にあるものが愛だとするのなら、その「愛」とは具体的にどういうことを指すのか。私はこれまでインド思想を学ぶ中で、インド古来の哲学が「愛」というパワーワードを大抵の場合直接的に使っていない事にいつも思いを馳せていました。その件については、話を先に進めるためにまた別でお話しできたらいいなと思いますが、要は「愛」という抽象度の高い概念(言葉)でまとめずに、人間の精神性を高めるための具体的なあり方や方向性をもっと詳細に紐解いて実践していく姿勢をインド哲学の中に感じています。非暴力やLOVE&PEACEは大前提として、そこに足をしっかりと置きつつも、きれいごとではなく実際に何をする?というところです。


私はヨーガの哲学とその実践から、人生の中で気づくべき重要な事をいくつも教わったと思います。それらは未だ実践中であり道の途中ではありますが、ひとつ皆さんにシェアしたいことは、愛とは「理解」である、ということです。

そのために実行することは「知る」事、「知る努力」だと私は思っています。グル(師)は「知は光」と言っています。知ること、理解することが最初の一歩であり、継続的に取るべき態度だという事を教わりました。


多くの現代人の感覚としては、「愛」とは「感情」の事を言っているように思っていたり、言葉もそのように扱われていることが多いように思います。

[Love is not emotion but existence]
愛は感情ではなく存在である


インドのアシュラムで何気なく手に取った書物の中表紙にそう記されていました。この言葉の奥にあるインドの宗教的な思想にはいくつかのバックグラウンドがあり、これもまた話を先に進めるために今回は割愛しますが、どんな人どんな事柄でも「それが存在する」ということは真理(宇宙の摂理)の前では斉しく肯定されているのです。だから戦争も肯定する、という意味ではないです。そうじゃなくて、ここで言う肯定というのは「オッケーする」事じゃなく、「それがあるという事実と向かい合う」ことです。


今起きていることにはすべてなんらかの理由と原因があり、それをまず知ることが世界に対する敬意だと思います。直接的に何もできないことに嘆いて自分の心のエネルギーを低下させたり、あるいは感情的な怒りやメディアに扇動された「今回の善悪観」で視野を狭めたりせず、真実を知ろうとする努力と、それについて何度も考えることだと感じます。


私たちの来た道に歴史があるのではなく、私たちの行く道に過去の歴史が広がっていると感じてなりません。


その歴史と今、どう対峙し、そしてどうやって今後の平和を創っていくのかを人類すべての人に問われているように思うのですが、これもまた今始まった話ではないんですよね。過去ずっと向かい合ってきた人類の最重要テーマです。


まずは歴史を知り、「今、自分自身はどう考えるか」と何度でも再考する事が、今回の戦火から離れた場所にいる私たちに出来ることのひとつだと思います。そのうえで実際的に出来る事を考えないとまた悲劇が起こります。


正しく学び、正しく祈り、正しく示していかないといけません。簡単な事じゃないのですが、今まさに命がけの状況の中にいる人々の実際的な苦しみと受難を思えば、難しいとか得意じゃないとか言ってる場合じゃないんですよね。


日本はある程度平和なので、そういう事を考えなくてもいいようにスポイルされて育ってきてしまったところも大いにあると思います。シリアのこと、ロヒンギャのこと、その他にも挙げられますが、それらをどれくらい知っている(あるいは知ろうと努めている)でしょうか。今回の抗争のことだけじゃなく世界のいたるところに暴力と苦しみがあり、今も終わっていないんですよね。もしそれらをよく知らないならウクライナのこともロシアのことも、そして日本の事も知らないということになります。全ては繋がっていて、単独で起きていることなどないから。


「知らない(知ろうとしない)」のは個人の自由なんですが、その自由もどきの惑わされやすい集合的心理は、権力とメディアの餌になります。それは戦争に加担しているのと等しいと言っても、もはや言い過ぎではないんじゃないか。言い過ぎかも知れない。でも言い過ぎじゃないように思います。一人一人の持つ力は、軽くないんです。


これは世の中に対する文句ということじゃなく、自分に言っている節もあるんです。私にしたって全ては知らないし、知りようがないことが世界にはたくさんあり、誤った情報を得る事もあれば偏った視点を持つ事もあるし、そして自分の事にかまけている時間だってもちろんあるんです。


でも、あえて「ロシアは」ではなく「私たちは」と言いますが、私たちはまた戦争を始めたんですね。そこに純粋な嫌悪と抵抗、強い否定を感じるのならば、自分を変えていかなければいけない。戦争や蛮行が起こっている抽象的なステージは、すべての人の心の中の「無知」なんだと思います。私たちの無知が、リアルの戦争を起こします。


無知を晴らすのは知です。
だから知ろう。情報も知識も完全に公平なものはないし、真実じゃないものを受け取る事もある。だからこそ、視点をたくさん持って、再調査も再考察も必要だという事を肝に命じていこう。そう思います。


今日はここまでとします。


気楽にみんなを笑わせたり、真剣な話をユーモアで語るのが好きな私なんですが、でもこのような想いも発信する努力をしようと思います。大事な事なので。


読んでくださってありがとうございます。

存在の尊厳を取り戻し、親愛を相互に送り合える世界の実現を心から願います。

ナマステ
絵美里


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