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祭式文化や密教から考える〜人々にはお祭りが必要だろう、の考察

*こちらの記事は旧ブログの中からお引越し記事のひとつです。部分的に読みやすくなるように修正したりしてます。以前に書いたものを徐々にnoteに引越しさせてきます♫


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(2021.1.25の記事)


今月(2021年1月時点)は「ハタヨーガの源流〜密教ヨーガの世界〜」という講座を行なったのですが、まあこれがとても面白い世界。

いささかマニアックな内で、ヨーガ哲学を何年かやってきた人にとって面白く感じるものになっているのですが、こういう話を聞いてくださりそしてともに考えてくださる受講者様がいることを心から嬉しく思います。

私のテーマ別の講座はどうにもマニアック傾向ありで、流行ったりブームになったりする気配のものを一切扱っていないので(笑)いつだって少人数で行なっているのですが、それはそれでいいかなと感じています。



思うに、哲学や思索が必要な講義って「ちゃんと伝わる人数」っていうのがあります。どんなに素晴らしい内容をシェアしていても、そこに適正人数以上が集まってしまうとなぜか「ぼーっとしてしまう人」が出てくるのですね。

みんな興味があって来たとしても、人数が多いというだけで “なんか集中できない”という人が出て来ます。これは対面で講義をしていた時によく感じていたことでした。オンライン授業だとまた違う要素もあるかもしれないですが。

私のサンスクリットの先生は「真理をついて教えるのに大人数はだめ。7人未満くらいがいい。頑張って10人、でも10人は実際には多すぎ。」とよくおっしゃっていたのがわかります。

というわけで、少ない人数で本当に興味のあるみなさんと古代の理論や歴史を紐解き語らっています。


「ハタヨーガの源流〜密教ヨーガの世界〜」講座は、時代は紀元後すぐから中世インドまでのヨーガを追いかけました。

インドの初期仏教が大乗仏教に発展し、ヒンドゥー教に影響されまくりながら密教化していき、最後はヒンドゥー教と「やってる事」がなかば同じようなこと(儀式とヨーガ)になり、インドにおいての仏教は歴史的な事情の中で衰退するのだけど「自己と宇宙の合一」に至る思想的なエッセンスと方法だけが、宗派を超えて「ハタヨーガ」といういわば「テクニック」として生き残っていくという、これまた壮大な流れになります。


現在の私たちが行なっているハタヨーガの元の姿を「お父さん」とすると、それが15、6世紀ごろ。文献で言うと「ハタヨーガ・プラディーピカー」などで、今回の講座はさらにその上の世代の「おじいちゃん」的な時代、9、10世紀くらいの「密教」にまで遡りました。

そして「そのまたおじいちゃん」くらいにあたるのが1〜5世紀くらいの大乗仏教のムーブメントの中で起こった宗教的ニーズと変容した仏教。同時にバラモン教のヒンドゥー教化も平行して互いに影響しあい、当時の人々に「何が」重要だったのかや、紀元前のヴェーダ時代との宇宙観の違いなどを見ていったわけです。


インドにおいて必然性を持って開花した「密教」についての世界観を見てみたのですが、これらを学ぶと現代の私たちにとって非常に考えさせられるものが溢れています。


そのひとつが、「儀式は必要か否か」です。


「型」と言ってもいいかもしれません。


なにかしらの決まった作法やスタイルに則って、その行動様式の中にどっぷり身も心も納めることによって「ある目的」の状態に達する。



密教の世界は「目的に達するための様式」に溢れています。この世界観での「目的」は、仏や尊格と自分を融合させることでした。そしてそれらの対象はいつしか極限まで抽象化され「宇宙との合一」と同義になっていきます。



開祖である釈迦の教えまで戻ると、仏教は、バラモンたちが専売特許的に行使していた「儀式」には否定的でしたが、仏教も時代の中で再び「儀式」を採用せざるおえず、それは「おひとりさま悟り型」の修行ではなく「民衆救済」の方向性を持って僧侶も信者も増やしながら維持していくことを考えると、「儀式」や「様式」を持つことが必要だったのがわかります。


祭式が宗教集団として社会的な役割と位置づけを担うための要素としてニーズが高まったのも理解できるのですが、それだけではなく「儀式」や「様式」というのは「没頭できる」という心理的な効能があることもまた、純粋に必要だったのだろうと思います。

人は「型」や「手順」や「向かうべきはっきりとした対象」がある事で強い集中を起こすことができます。

逆にそれがないと心というものは移ろいやすく、神・宇宙との合一と言うほどの究極的な集中など難しいというのはあるのでしょう。

密教は、目的もやり方もはっきりさせたことで「解脱」や「統合」というような境地への具体的な道筋を再構築していったのだなと思います。


ブッダ(釈迦)の教えとその後の大乗仏教以降の仏教ですと、その教理自体に隔たりが生まれ多様化していったので、あまり釈迦時代の仏教と後代の仏教を並べすぎると安直な比較論になってしまうのでそれはやりすぎないようにしたいのですが、あえて釈迦を引き合いに出しますと、


 釈迦くらい悟っていたら、儀式はいらないでしょう。


しかし、まだ悟っていない人たち、道半ばの修行者、そして大衆ももちろん、なにもなしに真理に集中していることは難しいのが常で、何かしらの道案内と手順に従っていくことで、だんだんと開眼していくのだと思います。



こういった世界を見ていますと、密教の儀式的なシステムやシンボルを多様に活用して精神を「ある状態」にまで高めていくプロセスは、現代の私たちにも少なからず必要なところがあるように思います。



と言うのも、現代、ことに昨今、精神的な方向性を失いつつある人で溢れているからです。すでに失ってしまった人もたくさんいるでしょう。それはこの世界の現行のシステム(政治や経済体制)自体が、古く利己的な体制のまま頑なに実行力を振るっているからでもあり、その影響が個人にまで降りて来たとき、偽物の自由と正義騙された幸福観として人々を翻弄し、個人の人生においては「不条理」という現実に生成されていくことがあまりにも多いので。


と、ちょっと理屈っぽく悲観的な書き方をしてしまいましたが、何が言いたいかと言うと、


「形式がもたらしてくれる一定の結果」に期待できることってあるよな

というところです。



例えば「お祭り」とか。


コロナの影響で、地域文化に根付いた「集まり」が開催しにくい昨今。人々の心のパワーがダウンしてしまっている傾向もあるのではないかと思います。


だからと言って

「みんなの元気を取り戻すために祭りだ〜〜〜!!」

とできないのがつらいところですし、

「そんなこと今はめっそうもない!やってたって行かないわよ!」

という考えの人もたくさんいるでしょう。



でも・・・


必要か否かと言われたら、お祭りにはじまるような私たちの精神的士気や幸福感を底上げしてしてくれて、なおかつ何らかの「区切り」とか「節目」になるような儀式って、必要なんじゃないかなと常々思っています。



集まって、みんなで一斉に盛り上がってみたりすること。

やりにくい状況ではありますが、ひとえに、はやくそういった日常をまた取り戻せたらなと思ってしまいます。



かといってじゃあ「東京オリンピックやるべきか」という話になると、これまた別の問題が多すぎて複雑ですが。


ただね、

人々の心のパワーを引き上げて、

生きる力を呼び覚まし、

恐れなくていいことを恐れてしまう心のトリックから抜け出すには・・・

「お祭り」って超エナジードリンク的だと思うのです。



真冬にふんどし!そして海へ!!

とか

大木にまたがって山くだる!!!(キケンですがw)

とか

誰だかよく知らない人たちとぐちゃぐちゃに密着しながら大声を出してソイヤソイヤ!!!

とかwww

輪になってぐるぐる踊る!!

とか

やるのはもちろん、その行いを見るだけでも人間の生が鼓舞されて心のパワーが溢れるのもです。


今年はどうなるでしょうね。


いろんな意見があるかと思いますが、個人的には、去年できなかったことによる大衆の心のパワー不足の復活もかけて、お祭りあったらいいなあと思います。


むずかしいかな〜〜〜まだ。


儀式には過剰な興奮や共同幻想を引き起こすなどの危険性を伴う面もありますが、でも実際にはみんながその目的を平和的な思想で共有していれば、とてもよい作用があります。一人では上がれないところにみんなで上がることも可能です。日常的でなく「たまに」そういうものがあることが大事なのだな、と。

大乗仏教って、もしその時代までタイムトリップしてみたら、そういった雰囲気で溢れていたパワフルな時代だったんじゃないかなとも思います。そこにはその時代ならではの苦しみからの救済願望もあったとは思いますが、その感情にちゃんと「発露」があった時代なんだなあと想像してしまいます。

そしてそれが密教という「カタチ」になって、よりパワフルに作用させる錬金的な動きが始まったのもわからなくないです。


あまり悲観的なことを言いすぎたくはないですが、現在の「この時代ならではの人々の苦しみや抑圧感」になにか健全な発露があってほしいと思います。

私自身ができることは、一回一回のヨーガのクラスやオンライン上での集まりが、みんなにとって元気になったり明るさの方に舵取りをするパワーを高め合う場となるように尽力する、そのくらいしかできないのですが、そんな小さな集まりであっても重要なことだと思っています。



重ね重ね、今年の夏くらいには地域のお祭りなどが復活していればいいなと思います。



話を密教に戻して終わりにしようと思います。


「密教」というのは、ことの発端は仏教の大乗仏教のあたりから、ヒンドゥー文化の「儀式」というシステムを再採用した流れから形作られてきました。

そのようにして大衆にも「救済」が開かれた仏教を作りながらも、その祭式の神学的な意味や様式の厳密さが異様に高まって、一般大衆には理解が難しい経典や作法がたくさん生まれたこともまた興味深いところです。そのような「新しい仏教」も後のインドでは衰退してしまいますが、その当時の仏教のあり様が中国そして空海らによって日本に伝わり、インドではもうあまり見ることのできないスタイルの「インド仏教のある時代のエッセンス」を遺産として保存しているのが、ここ「日本」なんですよね。


日本の仏教は本物じゃない、ちゃんと伝わっていない、と論ずる方の意見も非常によくわかります。ですが歴史の流れの中で「起こった」ことであり、本物かどうかというのは視点によって変わります。

日本に伝わって日本で培養された仏教も、その時代はそこまでしか伝わる余地がなかったという事実や、そして日本の時代的ニーズに合わせてそうなったという事実そのものはジャッジせず、研究対象として見ると非常におもしろいなあと思うのです。

文化ってそうやって形を変える生き物なので。



ではまたお目にかかりましょう!

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