梅の種に学ぶ


古い思想は賞味期限切れか
ー梅の種に学ぶー


(2024.6.23メルマガアーカイブ)



■返答していなかった問い

数年前ですが、とある談義番組の企画にゲストとして呼ばれたことがあり、初めてお会いするコメンテーターのみなさんから事前に「こんなテーマで話したい」というリクエストをメールでもらいました。その中から何をメインのテーマにするか決めようという事前打ち合わせ的なやりとりでした。


私はその企画にインド哲学の視点から言えることを添える、という立場で呼ばれていたので、テーマのリクエストや質問もそこに寄ったものとなっておりました。


複数の方からいただいたテーマは合計30項目程になり、その中から実際に議題にあげられたものは5つくらい。しかし、取り上げられなかったテーマにも話すに値するものがたくさんあって、それらは当時から今に至るまで私の中で「返答保留」みたいな感じで意識の片隅に置かれているものが存在します。たまにふと、思い出す感じで。


先日メールを整理していたらその事前やりとりのメールが出てきて、改めて読んだところ、この内容はやっぱり「返答」と「返答の更新」があってしかるべき質問だなあと思ったのです。


以下のような質問でした。



『薬学、医療、生活衛生の発達、食料の生産拡大、冷戦により戦争が起きにくくなり、概ね世界的に長寿になったことで、死への距離がだいたい20世紀を境にして大きく変わったと思うのですが、そのせいでもう古の思想はある意味賞味期限切れだとは感じませんか。』


こうやって文面で読むと、
「古い思想はもう役に立たないんじゃね?」
と言われているのかな、と感じるかもしれませんのでちょっとフォローしておくと、この質問をしてくださった方も、私とは専門領域は違うのですが、歴史や古い時代の思想に精通している方で、熱量高く研究し、パブリックにも共有している方です。ですので言ってみれば私と同じような趣味の人。なのでこの質問も「ちょっと一緒に考えて欲しい」というところもあったでしょうし、同業者的な者がどう考えているか聞きたいというニュアンスも含まれていたんだと思います。


加えて、個人的嗜好とも言える「理想(=古の思想には価値がある、という前提)」を横に置いて冷静な視点で見てみて、実際はどうなのかというところを話して公共性のある対談にすることも企画として重要なので、味賞味期限切れである可能性も考えてみる態度も持つ必要がある。そんな質問だったのだろうと思います。




■機能的な問題

当時どう思ったかをなんとなく思い出すと。

「死への距離がだいたい20世紀を境にして大きく変わったと思うのですが」というところを踏まえて、確かに生命維持という意味では(一般的には)大昔の切迫感と現在は違うと言えます。ですので、特に『死とその後』というヴィジョンを担当することが主たるミッションである宗教観は、現代の人々にとっては「すがる」ほどのものではなく、もはやエンタメと同等になっているところはあるなと思いました。


実際に漫画やアニメの「転生もの」とかが好きな人は多いし。真剣に信じて、それを自分の人生のメイン思想として軸に置くというよりかは、必要な時にだけファンタジーとして支えとする、というツール的なものになっていると言えるのかなと。



しかしそのような「死生観のライトユーザー」だけではなく、古い思想を知ることに強い興味を抱く人も多く、その心理的な動機には、自分が生まれるよりもずっと前の人たちがどのように考え生きてきたのかを知ることで今の自分が救われたり、揺れ動く心が定まるような「学びの効能」とも言えるものを求める人が多いのも実際だと思います。



第一印象としてそのようなことを思ったのですが、この質問で本当に考えたいことは、古い思想は『現在においても機能するのか』というところだと思いました。そこは単純に今の人々の「傾向」を挙げるだけでは足らず、突っ込んで研究している人間が考えないといけないところなんだろうと思いました。



この質問をいただいたのは2020年の4月頃、パンデミック真っ只中ですね。そこから現在までにまた世の中の事情は変わってきて、質問の中にある「冷戦により戦争が起きにくくなり」というところが最も様相が変わったところでしょう。世界はまた戦争を経験あるいは直視しないといけない時代に入りました。また、コロナ渦が落ち着いたとはいえ、心理的にそれ以前に戻るわけでもなく、生活を取り巻く様々な事情に変化が起こりました。


そんな今ならこの質問にどう答えるだろう、というところを考えてみました。「機能」という面で。





■現在地とか、振る舞いの確認とか

千年単位くらいの長い時間においても、ここ数年の短い単位でも、共同体というものが倫理を取り仕切ってくれていた時代ではなくなっているのですが、人がひとりでは生きていない以上、社会的な倫理や礼節が必要なくなったわけではないと思います。


多様性という言葉が溢れていますが、それこそ絶対正義のように持ち上げてしまうのはいささか危ないもので、新たな差別と非寛容を生んで行く様相はすでに散見されているように思います。



古の思想は現代に機能するのかという問いに立つと、当たり前ではありますが「社会のテンプレート」としては機能しないだろうと言えます。時代がまったく違うので。


ある一時代の思想や哲学をそのまま今にトレースして機能させることは、まあ無理というか噛み合わないでしょう。現代社会との不一致な部分が浮き彫りになり、いろんな齟齬が起こることは言うまでもありません。



しかし、古い時代の思想を知ることで、現代の自分たちの行き過ぎた部分や、いまだ必要なのに薄れてしまったものが見えてくるのは確かだと思います。


社会的なテンプレートにはなりませんが社会を営むための「バランサー」として重要だし有益なものだと感じています。社会という観点からだとそんな風に思います。




■個人にとっての効能


ここからは「個人にとって」という話になりますが、私がこれまでに古の思想を学んできて感じたこととして語ると・・・


人の心の中には「行きたい」という願望と「戻りたい」という願望が常に同居しているような気がします。遠くまで行きたい気持ちと、大元に還りたいという気持ちが。


不思議なことに、古い時代の人々が考えたこと(古ければ古いほど)を探求するという営みの中には、この「行きたい願望」と「戻りたい願望」の両方を同時に潤してくれる滋養のようなものがあるように思います。


「行きたい願望」だけを担っているものもあれば、「戻りたい願望」を専門に満たしてくれるものもあるのですが、両方いっぺんに担ってくれる不思議な共時性が古の思想探求にはあり、これこそ重要、貴重だと感じています。



■熟したからこその滋養

「滋養」と言いましたがそれは・・・

例えがすごくアレですが(笑)

梅の実の、種の、さらにその中に「白い実」がありますよね。種の殻を割ると入っているあれです。

あんな感じの「滋養」です。(どんな感じだ)



子どもの頃、梅干しを食べた後、種をガリっと噛んで中のあの小さな実を取り出して食べるのを一時期非常に好んだのを覚えています。祖母は「おばあちゃんはもう入れ歯だからそんなふうに噛めないわ」と笑いました。


今ネットで調べてみたら、あの種の中の実のことを日本では「仁(じん)」って呼ぶのですね。梅好きで知られる菅原道真にちなみ、湯島天満宮では梅干しの種の中には「天神」様がいると言われるようになったようです。
(へーーーーーー)


仁は中国では健康に良い効果があるものとして食べられてきたそうで、殺菌効果、目のかすみ、喉の不調、疲労回復、デトックス効果などの効能があるとのこと。


しかし食べても大丈夫なのは、完熟した梅や梅干しにした梅の仁のみで、未熟な梅(青梅)の仁にはまだ毒素が含まれているんだそうだ。多く摂取すると頭痛やめまい等の健康被害を引き起こすおそれがあるそうです。




まさに、な比喩ではないか。


新しい梅の核だと(人にとっての)毒性があり、熟した梅の核にはよき効能がある。



古く熟した思想の中の核の部分には、まさしく仁(やさしさ、慈しみ)に通じるような人間の営みとしての核があるように思います。その成分を取り出すのが古代思想の探求だといえば、カッコよすぎかな。



いいよ、カッコつけて行こう。


社会や共同体が、倫理観や人間としての普遍的な思想を担う役割を放棄し(あるいは苦労し)、資本、消費、利害を中心に回っている以上、そして自分がどこの構成員なのかもよくわからないこの大きな海で溺れないためには、今は個人的な美学も持たないとほんとに溺れてしまうだろう。


もちろんひとつの観念に囚われないようにする注意も必要だけど、次から次へと現れる言説に即座に反応したり、咀嚼しないで排除したりするのも避けたほうがいい。


そんなわけで、最初の問いの中に「賞味期限切れ」という比喩がなされていましたが、古の思想の賞味期間は、人類が心を持って生きる限り続くんじゃないかな。


今のところ、そんな風に思います。

折々再考したい件です。


ナマステ
EMIRI

 矢野顕子さんの言葉「癒しより慰めを」
を反芻しながら描いた蝶
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