時間の言語学からのクリシュナの実相
時間の言語学からのクリシュナの実相
〜「時間」という思考フレームを超える試み〜
■「時間の言語学」を読んで
最近読んだ書籍で、なかなか考察しがいのあるテーマだった書籍を紹介をしました。「時間の言語学」という本です。
私たちは普段から「時間、時間」と言ってますし、「時は金なり」という言葉に含まれる「時間」と「価値」をセットにした考え方が自動的に働いていることが非常に多いと思います。時間はお金と同じように大事、時間は生産性のために使われてなんぼ、というような「時間」を「金(大事なもの、価値あるもの)」で「計量」する意識がありますね。
「時間を使う」「時間を浪費する」「時間を無駄にする」「時間を与える」とかいろいろな時間に関する一般的な表現がありますが、多くが「時間」を「お金」に変えても通じる文になります。つまり時間とは、和語の「とき」という境界線があいまい(あるいはない)表現ではなく、「計量意識」が伴ったものなんだ、と。
この「計量」で弾き出される「価値」と、そこから発生する「比較」の意識は、いろいろな事を考える上でのベースにすらなっているように思います。
この本では、こういった「言語表現」から時間というものを人がどう(潜在的に、感覚的に、体感的に)捉えているかを探っていく内容でとても面白いのです。そして内容から私は、「時間というものを考える上で、計量感覚が強くなればなるほど、人の心に負荷がかかっているんだろう」というところに思いを巡らせてしまいました。
明治のはじめに西洋で使われている「太陽暦」が導入されると共に、英語の[time]の和訳として「時間」という言葉が作られ、そして「西洋時計」も入ってきて、[時刻、分、秒]などの言葉もできていったそうです。
(「遅刻」という概念もこの頃にできたそうです!それまでは、遅れることはあっても「遅刻」って概念は明確ではなかったんですね〜、なんか考えちゃいますよね。)
書籍の中では、和語の「とき」と、明治以降の「時間」の感覚の違いも丁寧に考察しています。
詳しい内容は、興味がありましたらぜひ書籍を読んでみてほしいですが、この「時間」という言葉に含まれる「計量」感覚について真剣に考えてしまいました。
「そもそも時間って『使う』ことができるものなのか?」
とか、
「時間を大事にとかよく言うけど、ヨーガ的な理論でいうと「大事」に思って大事にしようと執心するから、苦しむんだよな」
とか、
「時間を "私の”時間って思っている、"私の”がなければ心は安らかじゃないか?」
とか、
「本当に《時は金なり》だろうか。生産性や目的達成至上主義のドグマのにおいがするなあ・・・」
とかとかとか、いろいろ考えました(笑)。
そして、こういうおもしろい考察本を読みますと、やっぱり自分が専門としているパラダイムとの照らし合わせが起こってきます。
■クリシュナに時間の概念はない
例えばですが、ヨーガの聖典「バガヴァッド・ギーター」の中から紹介しますと・・・
神の化身であるクリシュナと、クリシュナに教えを乞うアルジュナの対話の一節で、「時間」というキーワードが出てきます。
戦場で親族や恩師と敵対するかたちになってしまった戦士アルジュナが、「彼らを殺すことはしたくない」と嘆くのがバガヴァッド・ギーターのスタートなのですが、そんなアルジュナにさまざまな視点から「真理(究極の教え)」を諭したクリシュナ。
第11章の大詰めの場面でこんな風に言い放ちます。
と。
文脈を知ってたとしても凄みのある恐ろしいセリフです。文脈を知らずに読んだら、「なんだこれは?戦争や殺しを奨励するお話なのか?」と思うと思います。
今はお話の内容説明は省かせていただき、今日のテーマの「時間」感覚のサンプルとしてこの節を見るとしましょう。
■これから起こることは前もって起っている
クリシュナは、これから戦場で戦って命を落とすであろう人々を指して
「私によって前もって殺されている」
と言います。
これってどういう事なのでしょう。
一般的に違和感のないところですと、「まだ起こっていないこと」は「未来」とします。
ですがクリシュナは、この先起こる事を「すでに私によって起こっている」と「すでに起こった(=過去)」のように言います。
ここでちょっと場面を巻き戻してみたいと思います。
上記のクリシュナのセリフが出る直前に、クリシュナはアルジュナに対して「神の実相」を見せる、という宇宙レベルの離れ技を繰り出します。
このシーンはバガヴァッドギーターのハイライトのひとつだと思います。
[バガヴァッドギーター クリシュナ]というキーワードで検索すると、以下のようなクリシュナの銅像や絵が検索結果に上がってくるので、見たことがある方もいるかもしれません。
この姿は「神の実相」を表したクリシュナを再現しています。
「ヴィシュヴァールーパ(Viśvārūpa)」と言って、全智全能者、あらゆる形をもつ者、あらゆる形態をもつもの、普遍的なもの(姿)という意味になります。「ヴィシュヴァ」は形容詞の場合は「すべての」「あらゆる」を意味し、名詞の場合は「すべて」「宇宙」を意味し、「ルーパ」は「姿」「形」を意味します。
(英語訳だと [Universal form]などと訳されます。)
そもそもは、アルジュナがクリシュナに「あなたの真の姿、真のありようを見せてください、なぜなら私はまだあなたの"活動"を理解していないから。」と頼んだからなのですが、実際に “それ(クリシュナの真の有り様)” を見てしまったアルジュナはもう、びっくり仰天どころでなく、総毛立ち、畏れに口も回らず、震えながら合掌、ありとあらゆる方向からクリシュナに最敬礼をする・・・という事態になります。
ここはちょっと想像すると面白い場面でもあります、東西南北あらゆる方向から敬礼するわけです。さらには、クリシュナが神の化身だと知らなかった時期に、友達のように戯れ、冗談を言ったり、時にからかったりしたあの頃の無礼を「ほんとお許しください!!!!」と許しを乞うのです。そして「もういいので早くさっきの人間の姿に戻ってください怖いから、お願いします」と(笑)。
平常心を保つことができないアルジュナの慄きっぷりが想像できます。それくらい、神の実相というのは、人間の通常心理では受け止められないのですね。
■アルジュナの見たもの
この時アルジュナは何を見たのでしょう。
それは先のクリシュナの「ヴィシュヴァールーパ(Viśvārūpa)」の像にも表現されているのですが、「全て/一切」が「同時に」展開し、そして「同時に」収束(回収)されているのです。
一般的に人は時間を、
経験済み/展開済み=過去
未経験/未展開=未来
という感覚で捉えています。
そして認識(身体)活動をしている地点を「今」としています。
しかしクリシュナ(真理)においては、それらは全て同時に展開されています。「未来」や「過去」があるわけでもなく、同時に展開し、また同時に回収されます。
クリシュナはアウトオブ[時間]
そしてアウトオブ[空間]
なのです。
私たちのいるこの空間の「外」にいるの?ということではなく、空間という概念に寄らない存在なわけです。中も外もないし、後ろも前もない。
これは人間の一般的な認識方法でなかなか捉えにくいところでしょう。しかしここを考えてみることは、自分がどのような「認識フレーム」の中にいるのか、つまり「何が見えていないのか」を知る上での最重要課題です。「何が見えていないのか」を知ることは、自分がどんな思考の枠組み(インド哲学的に言いますと「無知」)に属しているのかを探っていく旅です。
■頭がごちゃごちゃになってくる話
ここでに表現としてもうひとつ面白いのは、「私によって前もって殺されている」それが「クリシュナの口の中で」とあります。
口。
クリシュナの口の中で全てが起こり、全てはそこに還るのをアルジュナは見ます。先の書籍の言語学的な考察と絡めますと(やっと)、
「前/未来」「後ろ/過去」とイメージする言語世界は多いものです。それは私たちの身体において目や視界を前と捉え、目のついていない方を後ろと捉えている空間を把握するための基準があるので、見えている方向=前とする感覚が言語にも反映されます。が、しかし日本語でも指摘できるように、過去を語るときに「前に行ったことがある」とか「以前に話した」と言う感じで、「過去/前」と言うセット表現は普通にありますね。
で、空間(身体)感覚で言うと「後ろ/過去」というイメージを持つ傾向も多いと思いますが、同じように「一年後」と言うと「未来」を指しているし、「後のことを考えて」などと言うと「後のこと」は「未来」のどこかの時点を示します。
「未来/後ろ」というセット表現ですね。この辺の深掘り考察は書籍の方に詳しく載っています。
インド哲学フィールドで考えてみた場合、先ほどのクリシュナの実相のシーンはおもしろいです。全てがクリシュナの「口の中」で起っている。そして、クリシュナの口から展開したもの(全ての現象)は、またクリシュナの口の中にどんどんと吸い込まれていくとも語られています。
この「口」と言う表現はいくつかのメタファーなのだと思います。
一般的に「口」は身体の前面についています。 前=未来という感覚は、言語的には「前」の持つ真相の半分しか言えておらず、「前」は同時に「過去」も含んでいるのでしょう。
「前を向いて歩こう(未来に向かっていこう)」というような表現とともに、「前に見たことがある」など言える様に「過去」も孕んでいます。
するってーと。
口=前は、人間の空間(身体)感覚でそのように感じているところはあるのですが、空間(身体)感覚を抜きにすると、未来でもあり過去でもあるし、そのどちらでもないとも言えます。そしてもしかしたら、空間感覚を含めたとしても、「前」というのが過去である可能性もあります。
(そういう言語表現が世界にはあるよ、と書籍の中で紹介されています。)
さあ頭がごちゃごちゃになってきた頃かとおもいますが(笑)、クリシュナ(神の実相・真理・あるいは四次元を超えた認知において)の世界の見え方が少し垣間見れたかなとも思いますがいかがでしょうか。
■過去を見ることが未来に進むことなのかも・・・
少し次元を下ろして、私たちの一般的な認識感覚の中で考えてみると、「前を向いていこう(未来に向かって進もう)」というような表現は、過去を「振り返らない(後ろを見ない)」というニュアンスがあるのですが、認識フレームを変えると、
「未来に向かう」ということは、「(前面に)過去を見て、進む(後ろへ)」
という感じなのかもしれない。
そう言えなくもない、とかとか、いろいろ考えちゃうわけですよ(笑)。
あるいは教訓的にしちゃうと、
未来を見ることと過去を見ることは同じなのかもしれない、とか・・・
先に進む、ということは、過去から目を背けられないことなのかも・・・
とか発展させてしまったりたりたり。
いずれにせよ、普段「五感」でバランスを取っている空間感覚が歪むような、わけわからなくなる話ですねw
でもまあ、おもしろいじゃないですか、こういう事を考えるのって。
そして考えることによって自分に「見えていないもの」を手探りで手繰り寄せる思考の筋力が付いていくのがわかります。それが楽しいんですよね。
ここまで読んでくだり興味が湧いた方は「時間の言語学」読んでみてほしいです。
そしてご自身の探究しているフィールドで考察してみるのも非常に面白いと思います。(その考察はぜひ聞かせてほしいです。)
以上、結論のない話をつらつら長く書きましたが・・・
もしも未来が怖くなったり、心配になって二の足を踏んだりしているようでしたら、クリシュナの言葉に励まされてください。
「それはすでに私によって起こされている。恐れずに進め!」
と。
その未来は、実はすでに過去なのかも。
ふふふふふ。あまたごっちゃw
■いいから瞑想しろ
最後にオチとして。
ヨーガ修行論の方で言いますと、言語化しようとするとどうしても「空間」や「身体」感覚に依存しなければいけない私たちの認識フレームでは超次元的パラダイム(解脱)に「言語」で到達するのは無理だ!
そんなこと言ってないで瞑想しろ!
となります(笑)。
お釈迦様もきっとそう言ったと思います。
でもそうなんですよね〜〜、
クリシュナの実相は、瞑想の最高境地で理解されるはずなのです。
瞑想しよう。
ナマステ
絵美里
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