見出し画像

続・中年クライシス(その2)

*この記事はサイトから配信しているメルマガのアーカイブ記事になります。



それでですね(笑)

前回の続きなんですが中年クライシスについて。


前回は中年および中年クライシスの定義で終わってしまったのですが、もともと何を話したかったかと言うと・・・ストレスについてです。


「何がストレスになるのか」というのは年齢関係なく普遍的な条件があるのですが、年代別に見てみても特性があるよね、とも思うのです。

そんでもって年代を絞り込んで「中年」という世代に入ってからのストレスというものを考えまして、確かにそれはある。で、


それらが中年にとってストレスになり得る特性
というのを話したかったんですね。


もう中年、中年、うるさいわ!って感じですよねwww
いやでもね〜〜興味深い世代なんですよ、自分含め(笑)


いつも前置きが長く、そのくせその前置きがけっこう面白く書けてしまうので、なんの話をしてんだっけ?というところにみなさんを引きづり込んで久しいので、今日はもう結論から。


中年になりますと多くの人の場合、「投資的でないこと」がストレスになります。逆の言い方をしますと、消費的なことがストレスになります。


いやいや、そんなことない、
ストレスを発散するのに何かを買いまくったり、
1日ダラダラとネット見て消費的に時間を使ったりしてますよ、
そうやって何かに消費をすることが楽しく感じるし、
しあわせにすら感じるし、
消費したくて出かけたり買ったり過ごしたりしてまっせ
もっと消費したいから仕事してお金を作ってるんです・・
まだまだあれもしたいし、
これも買いたいし・・


と思うかもしれません。消費がストレスを癒してくれる・・・と。


でもそれは間違いです。

ほんとーーーに間違っています。


そもそもその消費的行為こそがストレスを生み出すものなので、消費することで得たストレスをまた消費でごまかしている、という真実に目を背けているだけです。消費で得られる快感もどきに心と体が麻痺っているだけで、この消費社会に骨抜きにされているので、本当のことへの「気づき」がなかなか起こらない。


中年になると目を背けられない真実とは「時間は有限だ」ということです。


前回の中年の定義でもお話しましたが、若い時分では空想上のものだった「死」が、「そのうち本当に自分に起こること」だと感じられるようになってきます。


まだ壮年世代ほどの理解はありませんが、じわりじわりと近づく足音を、皮膚の衰えや髪のぱさつき、簡単には痩せない体や階段のつらさなどをきっかけに、ふと気づくと子供の義務教育時代も残すところウン年とか、大学進学の学費貯めるのにあと何年もない・・・とかとかとか、具体的な時間換算も合間って、「え、待って、仕事あと何年できる?」「てゆうか人生って終わるんじゃん」と、リアリティが高まるのです。


時間は有限です。
こればっかりは誰かの分をもらったりできません。
使う、減るっきりなのです。


そうなると、すり減らしたり使い捨てるように時間を使うこと、エネルギーを無駄にすることが、苦しくなってきます。


「何か少しでも “いいこと” ”実りあること” に使いたい」と思うのは自然ですし健全なこと。そして中年世代の素晴らしい気づきは、自分だけ、そしてその時だけ満たされることに持っている資力(エネルギー)を使うということはストレスになるという気づきです。

自分だけの満足、自分だけの喜びに資力を投入することは結果として虚しく、それは「孤立」につながることもわかってきます。


もちろんそのまま行く人もいます。自分だけの満足最優先。それはそれで性格であったり生き方のひとつですが、ほぼほぼ孤立します。孤立が好きな人はいいでしょう。問題なければいいのです。


しかし多くの人はそうではなく、誰かと生きて行く、誰かのためになっている、誰かに喜びを与えることで得られる「繋がり」が人生を温め自分を生かしてくれるという事実に対して、正直になれるようになってきます。認めたくなかったけど、自分ばかり満たしていてもどこにも着かないんだ・・と。


これは当たり前と言えば当たり前の話なのですが無自覚である場合も多く、日々の慣れ親しんだ消費的な行動パターンを変えることができないからこそ消費を重ねてしまい、消費によってさらに満たされなくなり、心が弱くなっていきます。
は!
これは大事だ! (笑)


「消費」ばかりになると、心が弱くなりますのです。



ここで重要なところに立ちます。

「自分の心が弱い」ということはそれ自体がストレスで、「自分=ストレス」という構図になるんですね。

でも誰も「自分=ストレス」だなんて思いたくないし、あるいは気づきもしないので、外側に原因があるような気がして、あれがストレスのもとだ、これがストレスの原因だ、と外に原因を押し付けてしまいがちです。


しかし真実、自分の心と行動が自分にとってストレスで、心の脆弱な自分こそがストレスなんです。


これに関しては年齢関係なく言えることで、例えば思春期あたりなんて見てみますとまさに「自分の心模様」がストレスで、自分なんてたいしたことない(でもすごいと思われたい)、誰もわかってくれない、つまらない、おもしろいことがない、自由がない、親が最悪だ、というようにモンモンしますよね(笑)。もちろん親や周囲の人間にストレスを与えてくる人がいる場合も多いかもしれませんが(なんせ大人だって自分自身を克服していない世界なので)。


「世界がつまらないのは自分がつまらない人間だから」なのですが、少年少女たちはまだ時間がありますので、これから「おもしろい自分」を作ればいいのです、どっかで気づいて。


しかーし中年は、「もう長いことおもしろくない自分で生きてしまった」場合も多く、ないしは「おもしろくない自分になってしまった」かもしれず、それを一時的に満たしてくれる消費的行動で埋め合わせたとしても、「こんなん長くは続かねえ・・」とどこかでわかっているわけです。



そんな自分を救ってくれるのは、「投資的な行為」です。

株とか不動産投資をやれって話じゃないです。

なんでもいいので、自分自身の資力を「この先に実りのありそうなこと」に注ぐと、明るい気持ちになってきます。

残りの人生を生きる自分自身に投資して、何か勉強をしたり行動を起こすことで心が豊かに、そして安定してきます。

それが自分以外の誰かの喜びにつながるものや、もっと言うと自分が死んだ後にだって残るかもしれない誰かの喜びにつながっていると感じると、最高にストレスフリーなのですね。投資的というのはここではそういう意味で使っています。


ただね、「投資」って、いわゆる普通の意味での投資の話と同じで「リスク」が伴いますよね。


失敗するかもしれん。

損するかもしれん。

この投資は間違っているかもしれん。

変なものに投資してしまった。

などなど。


ここで中年を救うのが、勉強と、宗教。と私は思います。

宗教というよりかは「宗教的感性」と言ったほうがいいかもしれません。



消費的な行動パターンや思考が染み付いていればいればいるほど、いざ投資的になろうと思ってもうまくいきません。


だいたいの傾向として、消費的な思考パターンの人は「目先の損得」にすぐになびいてしまい、そして感情的になって焦ることで株とか不動産購入に失敗しますよね。


同じように人生を投資的に生きようと思っても、目先の損得ばかり見てしまったり、その時の感情を優先しようとする癖が働いてしまいます。

ですので、まず自分を知るために、人間の心理や物事を見極めるための知識の学びが必要です。


そして「宗教」と書きましたが、これは特定の宗教に入れってことじゃなく、この世界(宇宙)に対する畏怖の念を持つこと。人間の意思以外のものが働いている世界なんだ、というところを受け入れること。


それを「神」という概念を通して心に刻んでもいいし、祈りという行為を通じて高めてもいいし、宗教的な知識を学ぶことで知的に深めてもいいし、時々は自然の中に身を置いて「自分以上のなにか」を感じることでもいいですよね。

人間の意思以上の「なにか」に敬虔になれると、ここで言う「投資的なこと」というのは「奉仕的なこと」と融合していきます。(もちろん年若い時からこういった感性で生きている人もいます。少ないですが。)


多くの人は、便利すぎて骨抜きにされる文明社会で、長い時間を「消費のための行動」につぎ込んで、それこそ働き、食い、眠り、一時的な満足を繰り返し、安心を金で買い、消費の繰り返しによって自分自身がストレス満載なのに、これまた普通に(この場合は悪気なくしかたなく)未熟な「子ども」を育てたりしながら・・うまく育てられるわけもなくそれもまたストレスに感じ、不満と焦りを抱えながら生きています。


行動を変えるためには、今までの思考を脱するための「勉強」が必要なのです。


本文を追加



上記の中のひとつが非常に大きいテーマなので思い切って抽出しちゃうと・・・

「子育て」。

子育てがストレスという人も多大でしょう。

子どもが小さい頃の世話の大変さと、中学生高校生くらいになってから「自意識が爆発的に高まった人間」を養育すること大変さというのは相当に質が違うもので、中年になりますとまさに後者の時期になることが多いと思います。加えてお金のかかる時期に突入し、もう精神的にも体力的にもいっぱいいっぱいだ・・・と。


自分自身は「残りの人生を投資的に、実りあることに(時間やお金など)のエネルギーを使いたい」と思っているのに、目の前にいる若者はもう親の金と精神力を吸い取っていく。外ヅラは良くても家庭内では反発と陰鬱そのもの。人生の貴重さを理解せず無駄にダラダラと時間を過ごし、スマホとネットに時間を食いつぶされていることをなんとも思わず、自分で言ったことをすぐ放棄し、始めたことを継続せず、口ばかり達者になり対話しようとせず、ことあるごとに「めんどくさい」と言い、親の世代をバカにし、自分たちのカルチャー最上主義、一時的な快楽と刺激に恐ろしいほどの集中と執着を見せ、そこに親が身を粉にして働いて作ったお金(つまり親の人生の時間とエネルギー)を費やしたりするのです。
ストレス以外のなんなのでしょう(笑)

いやいやいやいやいや(笑)


伝わってほしいので非常に極端な言い方をしましたが、こんな若者ばかりじゃないし、若者の刹那的なあり方がそのまま親のストレスの原因だというようなことを言いたいわけじゃないのです。そんな一方的なことは言いませんよ、私はジャイナ教が好きなので。
(*ジャイナ教の「不定主義(論)」:真実とは「ある視点から」という条件付きでしか表現できない、という理論)


こっちの方が年齢的に大人で、順番で言うと先に死ぬので、若者によい未来を作る力と知恵を残していかないとあかんのですよね。正しい身体感覚と適切な知性を育てていくべき時期にある若者時代の「迷える心」を理解する努力をして、そして人間力を高めるための試練を必要に応じて提供していかないといけないのが、親であったり中年・壮年世代の役割でしょう。


しかし実際には、投資的に生きたいと思い始めた大人(主に中年)が、スペシャル消費的で刹那的な世代の人間(主に十代の子)と共にいる、というのは・・・キツいですよ(笑)。人間生活ってのは大変ですね。子鹿なんて生まれてすぐ立ちますよ。人間は二十歳になたって自分で立っていられない人も多いのです。


そういうわけで、すごく簡単にまとめてしまうと「人生に対するプライオリティー」がまったく違う世代と時間を共にするというのは普通に大変なことで、しかも「自分の生み出す(衣食住金の)エネルギー」に頼っているわけなので一層吸い取られ感が強いものでしょう。湯水のようにお金が有り余っている人ならまだ少し軽減されるかもしれませんが、一般的なところ、そうじゃないです。仮にお金は余っていたって、人生の時間と精神力の吸い取られ感が高ければ同じです。なんであっても消費的で先を考えなない若い世代のあり方を「同じ家の中で見ているだけで」疲れると思います(笑)
自分だってまだ未熟なのに「大きくなった人間を育てる」というのは非常に難儀なんですよね。


とはいえ、やっぱりね、それもできるだけストレスにしない策を講じれるのが大人の知性。諦めて若者のせいにしたらそれこそ愚かな老人です。


ここでもまた救いになるのは・・・


勉強と宗教。と、思います。



困ったら勉強!(それと運動!)


ありがたいことにこの世界には、特定のジャンルを研究し、学べる機会を与えてくれる人たちというのが、およそなんのジャンルでも存在するものです。

本でも、講座でも、とにかくなるべく「デジタルじゃない」方法で学ぶのがいいです。と言いますのは、消費的な行動パターンにこれまで身を浸してきてしまった人は、記憶力や物事の解析能力が低下しているので、ネットの記事とかYouTube動画などで知って「なるほど〜」と思ったとしても、それを覚えておいて自分の行動に反映させるという運動神経と処理能力が鈍っているからです。


教えてくれる人や先生の顔を実際に(今はオンラインでもいいので)見て、声を聴き、質疑応答などで交流することでだんだんと衰えた知性的機能が取り戻されていきます。紙の本をめくりながら大事なところに線をひいたりして読むことでも、物事を考えるという処理能力が戻ってきます。


困ったら勉強です。

何を勉強したらいいの?と思ったら、もうこの際なんでもいいのです(笑)。


興味が持てるものならなんでもでいいです。勉強をすることそのものが、鈍っていた解析能力を回復させてくれるので、自分の悩みやストレスに対してダイレクトな答えを得られるようなジャンルでなくても、勉強をすれば問題解決力や良案を思いつけるようになっていきます。


そして宗教。これはさっきも言った通りです。
どこかに入信しなくていい(笑)。
消費的な生き方で解析能力が低下した状態で何かに入信するのは危険すぎます。

「信じる信じない」ではなく、いろいろな宗教の考え方を知ったり学んだりしてみよう、ってことですね。宗教というのは人によっては先入観で毛嫌いしたり怖がったりする人もいますが、先入観や刷り込みだけで避けるのはもったいないものです。様々な宗教的考え方がこれまでの人類の心理を支えてきたのは間違いありません。


実際に私も、インド思想ばっかりですが、学べば学ぶほど他の宗教の理論の素晴らしいところを発見できるようになり、考え方が豊かになっているのを実感しています。昔「心を悩ませたこと」は、今の自分にとってはもう問題ではなくなっていることがたくさんあります。

そして中年世代というのは、人生の中間的地点で様々な葛藤も訪れる時期ではありますが、思春期と違って「もう無駄にできる時間はないんだ」ということに正直になれる素晴らしい地点でもあります。


結論と提案。


もしこれを読んでくださって、

まず「自分、中年クライシスだ」と自覚が起こりまして、

(性格上クライシス入りをしない中年もいるのでw、そこはご自身で見定めて)


じゃあ・・・

人生の残り時間の有限性を素直に真正面から受け入れてみたい、と思えた方。


おめでとうございます。


めくるめく中年パラダイスへの入場券を得ましたw


ここからは、とにかく、もう一度「勉強」をして、人間というものを改めて学びましょう。

そして地球と自然の保護を意識して生活するようにするとなおいいです。
これは自分のできるレベルでいいです。極端なエコロジストになる必要はなく、ただ、地球の自然も大事にしなければ人間の人生同様に破滅する「有限のもの」なんだと考察する姿勢が持てることが非常に重要だと思います。
宗教を学ぶことで得られる世界観につながります。


自分の体という、これまた有限なものを大事にしましょう。運動してください。

というわけで。


まだまだ書きたいことがあるのですが、欲張って書いていますといつまでたっても送れないので今日はここまでとし、次回「その3」を書こうと思っています。(まだあるんか!w)


その3では、「悲惨な中年クライシスにならないように・・・」というあたりを書こうと思います。まだまだ引っ張る(笑)




長いのに最後まで読んでくださってありがとうございます。


デジタル時代。
長い文章が読めない、文章を読んでも意味(文脈)を捉えることができない、という人が相当数増えていると聞きます。

これを最後まで読んでくださったあなたは大丈夫ですね!

次回も長くなると思います(笑)。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?