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ジャストフレンド



 調子の悪いときに調子の良いことを言おうとすると空回りするなあ、この場合、酔って攻撃的な事を言わないようにするには黙ることだ、酔ってるのに? 酔ってるならそのかわり、なるたけ快活なことを……という思いで彼は現在タコスの生地を丸めている。タコスの生地はひとつ十五グラムで、丸めたあとはGさんが丸く平たく伸ばしてから一度焼く。「手を洗うとき、洗剤のきつい匂いがしない方がいい。でもなるたけ。生地をファブリーズはもちろん、柔軟剤の匂いがする布で包んだらその匂いがするときがある。今日はでも大丈夫」というGさんは優しいからたぶんGさんの言葉に変換してそれを彼に言っているけど、Gさんは以前に二週間詰め込みでタコスの修行に出たので、そこではもっときつい言葉でそれを学んで、それを彼に言ってくれているのだと思う。彼はタコス生地丸めを本当に楽しがっていて、彼の友人のHくんは昨日仙台から熊本、熊本から大阪に着いて、レコードをかけている。ビズマーキーの曲が流れて、「これ誰?」「変な曲ですねえ」があって笑って、Gさんは「ビズマーキーは少し、障害のことがあるかも知れないけど、マーリーマールの家の前で雨の日も風の日もラップをしてた」と言った。
「マーリーマールのことを本当にビズマーキーは好きで好きで、尊敬してて、どうしてもマーリーマールのトラックでラップがしたかったからずっと家の前でラップしてたらしい。不審者。でもとうとう根負けしてマーリーマールは家に入れてラップをさせたけど、もう止まらなかったらしい。あとはもう、だから、同業者のアイドルというか、みんなのアイドルになった。ビズーマーキー、やっぱりいいよねえ」
こういうGさんの話が彼は好きで、彼はたくさん並んでるレコードからHくんがレコードを抜き取って掛けてくれる度にGさんが音楽の話をしてくれないかと心待ちにしてる。Gさんが「これ俺中二の時にずっと聴いてたやつ!」とマイケルジャクソンのレコードがかかって言ったとき、扉が開いてミハルさんが入ってきた。

 ミハルさんはホタテと菜の花のタコスと、鯖のピカディージョ、のタコスを注文して食べてから、赤ワインを呑んだ。呑んだとき、身体の底の方から「ぱあ」とか「かあ」といったような声が出て、本当に旨そうだった。「ちょっとねえ、疲れてるのよ」と笑って言い、親類の入院の世話が済んでここに来たことを跳ねるような口調で言っていた。入院が済むまで、自分の時間が取れなかった、と言っていたけど、ミハルさん本人からそのことを悔しいと思う素振りは少しも感じられなかった。
「うちは猫が七匹いるの。餓死寸前で、もう歩けなくなった猫ちゃんがね、うちの前で倒れるのよ。たぶん猫同士、なにかがあるんだと思う。」と言うミハルさんは、こんなに美味しいタコスをひとりで食べてしまって申し訳ない、と言ってラインでミハルさんの妹を呼ぼうとした。
「このお店もそうだと思う。わたしは最初ふらっと入って、若い人もたくさんいて、いつも元気をもらう。元気をもらってもらってしょうがない。ふふ。普段だったら入らなかったと思うけど、その日は今日よりずっと疲れていたから。マスターとママの、なにかが呼んでくれてた」
ミハルさんのスマホからスマホらしくないチャンチャカ、チャンチャカ、という着信音が鳴って、ミハルさんは「はいドウゾ」と言って出た。なにか無闇に感動した。

 それから彼はタバコを吸って電話をして帰り道、ビズマーキーのジャストフレンド、をユーチューブで再生しながら帰った。(和訳ではどうも伝わらない余白が絶対あるはず)と思ってホームページの、少しおかしな和訳を読みながらで、途中「ジャスのバストこれ」という言葉にたどり着いたとき、完全に納得したようになった。そういうことか。ミハルさんが「私には嫌なところがたくさんあるのよ」と言ったとき、そこに居たみんなは口々に「自分の嫌なところなんて、見ても見てもなくならない。果てしない」と言って彼も一緒になって言ったんだった。彼は自分にもしっかりその言葉を繰り返す代わりに、誰もそのあとに続けて「嫌なところは見てもしょうがないから見ないんだ」と言わなかった事を、思い出していた。「ジャスのバストこれ」はたぶん乳房の事を言っている、でもそんなことはどうでもいいことで、ジャストフレンドは失恋の歌で、失恋には人間の根幹みたいな揺れもあってそれも含まれていて、男性と男性の、女性と女性の関係の、その終わりについても包んでくれているみたいで、モーツアルトみたいな格好をして歌うビズマーキーに彼は彼なりの物語をつけて、それで泣こうとした。酔っていた。泣こうとしていたから歩道の細い鉄柱に気がつかずに股が引っ掛かって転倒した。転倒した右手に缶が当たった。缶にはもうなにも入っておらず濡れなかった。だから彼は寝転んだ格好のままで「全然大丈夫っすよ」と言った。


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