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BLに惹かれる理由

2,3年前から、BLマンガや小説をよく読むようになった。

有名どころでは、「囀る鳥は羽ばたかない」→「バナナフィッシュ」→「ENNEAD」→「天官賜福」の順に沼にドボンと落ちてきた。

異性愛が前提の物語は、私のトラウマを刺激する。そして、異性愛の物語の結末は大抵3パターン、結婚、育児、別々の道を歩むだ。飽きている。
異性愛の関係性には、ジェンダーバイアス、婚、支配被支配、子を産む性といった雑音が必ず存在する。ジェンダーギャップ指数どん底の日本で、自分が味わってきたくそみたいな出来事を、趣味の世界でまで見たくない。

BLの物語は多種多様で、異性愛のジェンダーロールを内面化した同性同士の物語もあれば、即物的な性愛を描いた物語もある。また、マイノリティとして自分自身を深く掘り下げ、相手との関係を一つずつ積み重ねていく物語もあり、私が魅かれるのはこのタイプのストーリーだ。

雑音が少なく、個人と個人が試行錯誤して関係性を構築していく様が見ると、救われる。


最近「囀る鳥は羽ばたかない」の劇場版アニメが再演となって、観てきた。
なんでかわからないけど中毒のようにはまった物語、
今回久しぶりに観て、私が強く惹かれていた理由がわかった。

主人公の矢代は幼少期に義理の父から性的虐待を受けていた。矢代は、義理の父や矢代をネグレクトした実母に対して恨みを向けるわけでもなく、自分のことは誰かのせいであってはならないという信念をもって成長していった。思春期には、男性に対するセックス依存を抱え、そのことに気が付かずに依存を深めていった。セックスを仕事の手段として活用し、そのことになんの疑問をもたなかった矢代だったが、ある部下から大切にしてもらう経験をすることで自分のトラウマに気が付いた。「誰かのせいであってはならない」という信念を軸に構築してきた自分が、他者から向けられる愛情に触れることで、揺らぎ崩されることに恐怖を覚え、大切にしてくれた相手を容赦なく突き放す。しかし、一度禁断の果実を食べてしまえば、その甘さは忘れられず、数年後元部下と再開した矢代は、大切に愛してほしいという本音が漏れ出て、コントロールできない。しかし、実際大切に愛されると相手を反射的にはねつけてしまい、その自己矛盾に自分自身も気が付いている。

 「バナナフィッシュ」に惹かれた理由も同じ。美しく聡明な主人公のアッシュは、幼少期から性的な対象として男たちから狙われ、被害を受けてきた。被害を受けるたびに傷つくが、回数がそこそこ多くてただうずくまってもいられず、物理的に強くなっていった。家族から守ってもらえなかったアッシュは、少し年上の少年でまっすぐに育ってきたエイジに惹かれていく。

「ENNEAD」は、エジプト神話の九柱神が出てくる物語で、戦争と砂の神であるセトがまた美しく、セトを自分のものにしたい兄のオシリスはセトの息子を人質にとり、セトはオシリスに自分の身体を差し出す。セトはオシリスへの怯えから、人間の大量虐殺を行い、今度は加害者の立場になる。

この3作とも、美しく聡明な主人公が性被害に遭い、傷の癒しの直接的な機会がないまま日常を送り、自分を大切に思ってくれる他者の存在に希望を見出し、救われる過程が描かれている。


美しさは他者の所有欲を刺激する。明確な意図をもった性加害は大抵防げない。主人公たちは傷を負い、効果的なカウンセリングを受ける機会もなく、別のモノへの依存を深めたり、暴力に駆り立てられ被害者が加害者になったり、じっとうずくまっていたりしている。

ここが、たくさんの女性読者をひきつけている部分なんじゃないのかな…

日本で女性として生きていて、性被害をうけないということはまず難しい。
電車でも、学校でも、何度も受けた記憶がある。そのたび「こんなことで私は傷つかない、気にしない」と解離を重ねてきた。

中2か3の修学旅行でどこかの城の急な階段で順番待ちをしている時、後ろの男子生徒が私の制服のスカートの中に頭を入れ、しばらくそのままでいた。周りの生徒は「それはまずいんじゃ」と言うが、その男子生徒はやめない。

書いていて息苦しくなってきた。ここが解離のスタートか。

専門学校に通う電車の中で、よく疲れて眠っていたが、目が覚めると隣の男に胸をつつかれていたり、股間を擦りつけられていたことに気が付く。舌打ちしたり押しのければ止めさせていた。

初めての性体験の相手が、セックスをする前は「自分はゴムを必ずする」と言っていたが、数回目で生で入れてこようとした。その時の光景はスローモーションで記憶されていて、「え?なんで?ゴムするって言ってたじゃん」とパニックになっている。入れられた途端、「あー、これ性病の可能性がでてきちゃった」と、無力感、怒り、悲しみの感情があった。結局性病をうつされ治療をすることになった。

子どもの父親は、しょっぱなからゴムなしで入れようとしてきて、その時の記憶もスローモーションになっている。「あれ?この人チェリーなの?性病のリスクとか考えないの?妊娠とか知らないの?馬鹿なの?何なの?やばいやばい」とまたパニック。結局妊娠させられて、子どもを一人育て上げることになった。

その後付き合った3人の内1人も、しょっぱなからゴムなしで入れようとしてきた。その時はさすがに相手の首に手をかけつつゴムをしろと諭した。

7人中3人はヤバいやつだった。


性被害はなかなか言い出せない。
言っても信じてもらえなかったり、「モテ」自慢かとひがまれたりする。
スウェーデン並みの人権意識とシステムがなければ、性被害と判断されることがそもそもない。日本の統計には出てこない、埋もれた性被害は山のようにある。

日本の女性たち、年齢が上がれば上がるほど、暴力に晒される機会は多かったはず。「暴力」と世間は認識してくれないけど、自分の中にはなんか違和感があって、傷はそのままになっている。女性が性暴力を受ける描写はリアルすぎて、女性読者は読めないし読まない。男性が性暴力を受ける描写だと、自分とは距離がとれ直接的なトラウマへの刺激がなく読むことができる。

被害を受けた主人公たちが傷を抱えて生きている様、救われたいと本音では思っている様、愛情を向けてくれる信頼できる他者との出会いで満たされる自分に気が付く様、新たな性愛によってトラウマがフラッシュバックし振り回される様に、女性たちは自分を重ねているんじゃないのかな

少なくとも、私はその傾向がある。

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