「恵まれている」ことを自覚することについて、そしてそれに伴う(最近の)私の疑問
今回は題名が長くなってしまいました・・・!薄々自覚があったのですが、私は文章を書く時、「・・・について」や「・・・ということ」、そして()を頻繁に使う傾向にあるようです。そして、この記事の題名の文体は、ある日本人作家にとても影響を受けていると思います(分かる人には分かるはず)。
「自分は運が良いのだ」ということに気がついた
さて今回の記事は、最近私が少し思い悩んでいることについてです。どこかの記事で書いたことがありますが、今年の5月、イギリスで川上未映子さんのトークショーに参加したことは、私の従来の考えに大きな影響をもたらしました。私が最もハッとさせられたのは、
「それが大きなものであれ小さなものであれ、私たちが何かを成し遂げることができたり、成功したりできたのは、もちろん私たち(正確に「私たち」というニュアンスだったかは忘れてしまいました・・・)が努力したからだというのはあります。しかし、その前提として、私たちはあらゆる点において『運が良かった』ということを忘れてはいけないと思います。努力することができる環境に身を置けたという運の良さ、大きな病気をすることなく健康にいれたという運の良さ、サポートしくれる人がいたという運の良さ・・・。様々な『運の良さ』が、あると思います」
という川上さんの言葉です。私は今まで、「努力が全てだ!!」と本気で信じている人間でした。私が何かを成し遂げたのは、私が死ぬほど努力したからだ。あの人が何かに失敗したのは、努力しなかった、もしくは努力が足りなかったからだ。自分でその道を選んだんだから、文句なんか言うな。
・・・このような考えを持つ人間でした。今ならその考えの「やばさ」が分かるのですが、正直、川上さんのお話を聞くまで、自分のそのような考えを信じて疑いませんでした。言い訳に聞こえるかもしれませんが、私がそのような考えを持つようになったのは、そのような考えが「当たり前」な環境で小学生~高校生を過ごしてきたからだと思います。努力してなんぼ、お前が失敗したのは、お前の努力が足りなかったからだ、みたいな。それを12年間叩き込まれる生活・・・。
もちろん、何かを成し遂げるためには「努力」は必要不可欠です。何かを成し遂げたいと口にする割に、全く努力をしないのは違うだろうと思います。でも、世の中ってそれだけではない。何か行動に移そうと心では思っていても、どうしても動き出せない人がいる。それは精神的な問題に悩まされているからかもしれないし、身体的に苦しんでいるからかもしれない。もしかしたら、周りの人間関係に悩んでいるからかもしれない。いずれにせよ、私がピンピン元気な心と体で目標に向かって走っている隣で、私が知り得ない理由でどうしても動き出せない人がいる。それはこの世の中で当たり前なのに、今までの私は全く理解していませんでした。
さらに私が衝撃を受けたことがあります。川上未映子さんは、昔大阪のクラブで働いていたことを公言されていますが、私が参加したトークショーで、「私はクラブで働いていたことがありますが、大きな病気をすることもなく働けたので、とても幸運だったと思います」とおっしゃっていました。私には、この発言がとても衝撃的でした。私の偏見にまみれた考えでは、「お金を稼ぐためにクラブで働いていた」経験を「辛い経験」としてお話するのかな、と思っていたのですが(クラブで働く=ダメ、劣っている、みたいに私が思っているわけでは決してありません。ただ、夜にメインに働くお仕事は何となく肉体的にも精神的にもしんどそうなイメージがあったので)、「健康に働くことができた」ことを「幸運だった」とおっしゃいました。その、「健康に〇〇できたのは幸運」という考え自体が、自分の中には無かったので、とても驚きました。前述したように、当時私は留学中だったので、トークショーの後「いかに私が恵まれているか、運が良かったのか」についてあらためて考えてみました。コロナ禍でも留学しても良いと言ってくれ、金銭的にも精神的にもサポートしてくれた両親、「いつも頑張ってるね」とお手紙を日本から留学先まで送ってくれた祖母や叔母、留学申請に全面的に協力して下さった専門の先生や留学担当部署の方々、奨学金を給付してくれた日本の企業、辛いことも共有できた日本人留学生中間、私の英語は不十分なのにそれでも良くしてくれた、留学先で出来た沢山の友達・・・。さらに、私の周りにはコロナの影響で予定していた留学が頓挫した友達や先輩が沢山いました。そのような状況で1年間留学できた自分はまさに「幸運」としか言いようがありません。他にも、留学中、体調不良にもならなかったし、深刻なほど精神的に落ち込むこともありませんでした。以上のことは私の「留学」の面で「運が良かった」ことですが、他にも私の大学生活、中高生の頃、小学生の頃・・・など、人生の色々な局面で「私がいかに恵まれていたか」ということについて、同じことが言えると思います。このように、私の今までの人生の特権性を始めて明らかに自覚しました。
「運が良い」ことに気付いたのはいいんだけど・・・
さて、このような流れで自分がいかに恵まれているかということに気付いた私ですが、次にあることに思い悩むようになります。それは、「自分は恵まれ過ぎている」ということに頭を抱えるようになった、ということです。さらに、「『自分は恵まれている』ということに頭を抱えるなんて、何て自分は傲慢なんだ」と自問自答(そこまで深いものではないけれども)し、二重で悶々とするという事態が発生しました。特に、個人的に最近周囲で大小問題を抱えている人が複数いるので、「自分の周りにはしんどい思いをしていいる人たちがいるのに、こんなにも恵まれている自分が思い悩むなんて!!」みたいに思うようになりました。さらに、「もし私が今後病気になったとして、病気が治った後に、『病気になった辛い思いをしたけれど、無事に治って幸運だった』って思わないといけないのかな?」「今までの人生全て『幸運』だったけど、それでも私は私で辛い思いも沢山してきたし、それを持ってしても『幸運』とひとくくりにしないといけないのかな?」など、色々なことにモヤモヤとしました。
誤解を招かないように詳しく書いておくと、ここで言う私の「思い悩んだ」「悶々とした」「モヤモヤした」というのは、全く深刻な状況ではないです。自分でもこの感情を理解するのに少し時間がかかったのですが、言うなれば、「今まで知らなかったことを修得した結果、自分の中に無かった気持ち・考え・感情が発生し、それが何なのか飲み込むのに時間がかかった」という感じです。
また新しい考えに出会った!!
上のように、少しモヤモヤとしていた私は、再び新しい考え方に出会いました。それは、漫画『違国日記』を読んでいる時のことでした。この漫画は、中学三年生で両親を亡くした「朝」という名前の女の子と、朝のお母さんの妹(名前は「槙生(まきお)」という)が同居し、それぞれの生活を送る話です。私は槙生ちゃんの言葉にハッとさせられることが多いので、最近よく読んでいるのですが、中でも
「・・・どうだろう へんかもしれない
でもあなたの感じ方はあなただけのもので誰にも責める権利はない」
―ヤマシタトモコ『違国日記①』
「さみしくない ・・・わたしはね
わたしにとって自分の感情はとても大事なものでそれを踏み荒らす権利は誰にもない
それに 誰も 絶対にわたしと同じようには悲しくないのだから」
―ヤマシタトモコ『違国日記⑤』
この2つのセリフが特に印象的でした。「私の感情は私だけのもの、個別的なもので、それを他人からとやかく言われる筋合いは全くない」という考えも、私にとっては真新しいものでした。ということは、「自分が恵まれ過ぎているという現状に少し頭を抱える」という私の、端から見ると奇妙に見えるかもしれない感情も、「私だけのもの」であって、「誰にも責める権利はない」のだ。それを理解してから、少し気が楽になりました。また、「他人にはその人だけの感情があり、その感情を私にも他の人にも責める権利は全くない」ということも頭にたたき込んで生きよう、と思いました。
まとめ
今回の記事で書きたかったことは、
・自分は「運が良い」「恵まれている」という前提を認識すること
・自分には自分の、他人には他人の個別的な考え方や感情があること
・自分 / 他人 の線引きはちゃんとすること
です。まだまだ至らない点や見えていない、自覚できていない点があると思いますが、これが現時点での私の「考え方」「感情」です。本、ネット、知人等からの助けを借りながら、また自分の考えをアップデートできたら良いなと思います。
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