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祖母の海

大阪に住む祖母と、私が小学生の頃に二人で和歌山へ墓参りに行ったことがある。
一時間ほど電車に揺られて着いた海の近い駅から、バスに乗り換え、小高い丘の上の方まで運ばれた。
誰のお墓だったのか、どうして私だけが着いて行ったのか詳しい経緯は覚えていないが、その墓地から見えた海と岸辺の町だけが不気味な鮮明さで思い返される。ここに幽霊がいるなら、ずっとこの海を見られて羨ましいなどと不謹慎にもそう思った。

墓参りを終えてから、駅の近くにあるマクドナルドへ、ジャンクフードなどほとんど口にしたことがない祖母を引っ張っていった。祖母が注文したのはプチパンケーキだったように記憶している。二人でソワソワして食べたこと、こういう些細なことを何年も経ってから不意に細部まで思い出すことが時々ある。まだ祖母が認知症でなかった頃のことだ。



祖父母の喜寿の祝いに勝浦へ親戚で旅行したこともあった。小さな島の縁に這うように建てられたホテルの裏山まで、起き抜けにみんなで散歩をしに行った。
傾斜の緩い山であったが、当時既に膝があまり良くなかった祖母の手を私と弟で交代に引いて、15分ほどして見晴らしの良い崖のような場所に出た。
広大な太平洋が重く蠢き、遠くの水面が光を反射して、あまりに眩しかった。海を背景に皆で写真を撮影したのだが、それが今誰のフォルダに残っているのかはわからない。
私が一番覚えているのは、祖母がその軽い山登りに大変苦労していたということだ。
 


今はもう、祖母はあの山を登れないだろう。
昨年の初夏に、パイナップルを丸々一個抱えて祖父母の顔を覗きに行ったのが最後、それ以来母から様子を聞くばかりで二人には会っていない。
家からほとんど出ない彼女は、世間を騒がすウイルスのことを多分知らない。私が専門に進み初めて白衣を着たときは泣いて喜んでくれたが、今私が何の仕事をしているかも覚えていないだろうと思う。彼女はここのところ私の知らない人の名前で私を呼ぶ。




けれど、様々なことを忘れていけばいくほど、祖母が祖母であることを思い知る。その仕草の端っこの方に、ふとした表情筋の動きに。癖とは最早、魂に刻まれた記憶なのだ。決して失われないものがある。それが何かはおそらく人によるのだろうが。

「忘れていくこともいつか美しいと思えるよ」
という言葉が繰り返し過ぎていく。
会うたびに祖父に何かを隠されたと憤っているし、自分の年齢も子供の名前も言えなくなってしまった。けれどどうしてか、祖母を見ていると、老いていくこと、忘れていくこと、それらがとても美しいことに思える。
私の切ったパイナップルを食べながら笑う祖母は、今も昔も、育ちの良い手つきと柔らかい笑顔をたたえている。

「ミカちゃん、お姉さんは元気?」
いない姉の安否をどのように伝えたのかは既に覚えていないが、母のいとこらしいその名で呼ばれて、少し嬉しいと思っていたことは何故か忘れないでいる。

私が忘れないでいるよ。
何を忘れてもあの頃から一つだって失ってなどいない祖母のこと、何かを足されも引かれもせず、ただ一人の人としてそこにいることを。
祖母と二人で歩いたこと、あの海も全て、私が覚えていればいいのだから。
苦難の多かったその身に今流れている時間が少しでも穏やかなものでありますようにと、それだけがずっと気がかりでいる。