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移ろいの一部分

生活のふとした瞬間に、私は死を思う。
朝靄に霞む山の光に目を細めるとき、公園のベンチでコーヒーを飲んでいるとき、寝転がってスマホをいじる休日の昼下がり、くたくたに疲れて乗る帰りの電車、夕日を浴びて自転車を漕いでいるとき、毛布を抱き締めて呼吸をする深夜。そういう日常の中でふと、あ、今死んでもいいなと思う。年を取る度に生きることへの執着が無くなっていく。私は一体どこに向かっているのだろう。

高校生の頃、自分で死ぬタイミングが図れたらいいのになぁとよく思っていた。今すぐ死にたいという訳ではなかったけど、長生きはしたくないなぁ、どうすれば誰にも迷惑をかけずポックリ逝けるのかなぁなんてぼんやり考えた。先の為に今出来ることはしているつもりでいるけど、それでも未来のことなんて何にもわかりはしない。思い描くこの先は想像でしかなく、どんな困難が待っているのかと思い浮かべるとそれはそれは恐ろしかった。まだ20にもなっていないのにもう疲れ果てたような思いがした。

とはいえ、高校生の私が思っていたよりも死ぬという行為は存外厄介らしい。いつか「楽しいままで終わりたい」と言って空を飛んだ中学生のことを未だに思い出す。私には身を振り切る勇気も熱もない。あれから誰かが自殺したニュースが流れる度に何故か何処へも行けない気持ちになる。初めから何処へ行ける訳でもないのになぁ。こうやって生きている私よりもう死んでしまったあの子の方が何倍も人間らしく生きていると言えるんじゃないか。

高校を卒業して数年が経った。心だけがどんどん老いていく感覚。すぐ死にたい訳ではなかった筈なのに、もう死んでも何にも美しくない歳になってしまったとどこかで薄っすら感じている自分がいる。もう取り返せないものが朧げに、それでいて確かにそこに存在する。長い間消えない寂しさを背負っていた。でも、その寂しさが私を今の私にしたのだと最近は思うようになった。兎にも角にも、私が私である限りこの寂しさとも上手く付き合っていくしかないのだろう。

人生は地獄だ。今も昔も変わらずそう思う。でも、簡単に死ねない私は生きていくしかない。「どれだけ無様に傷つこうとも 終わらない毎日に花束を」というメロディ。最初に聴いたときは何度もその部分をリピートし、気付いたら泣いていた。結局のところ、地獄は地獄なりにやっていくしかないのだ。

今年もまた別れの季節がきた。桜を吹き落す風の向こうに微かに夏の匂いがする。眩い季節。夏は何もかもを許してくれる。茹だる暑さを思い出すと、プールに500匹の金魚を放って泳いだあの子たちの純情がチカチカと脳裏に再生される。いつだって生き急いでいる10代の彼らにとっては、青春の名の下に踊り、息をする少年少女が正義なのだ。そして忘れられているだけでそれは大人になっても変わりはしない理で、そうして生きていくことはきっと、いや紛れもなく愉快で尊い。けれど私は、金魚掬いで掬った金魚たちを少しだけ見つめ、また生簀へ返す方を選ぶ。

ふとした日常の眩しさがかけがえのない美しい記憶であると気付くのは大抵その日常に手が届かなくなってからだ。私は海の中に星座を見つけ夜空の間を泳いでいくような人生よりも、公園のベンチに身体を沈めて明日を呼び寄せる夕日をぼんやり眺めるような人生の方が性に合っているし、そんな毎日を、地獄を愛しいと思える人間でいたい。
根拠もなくまた明日を生きるつもりでいる私は、ありふれた匂いの中でまた深呼吸をしている。

#日記 #エッセイ