DIARY20200627(ピータードイグ展評など)

朝から大変蒸し暑い。涼しいところに逃げ込みたいな、と思い付きで、美術館に行くことにする。そもそも行こうと思っていた、国立近代美術館のピータードイグ Peter Doig展。美術手帖でインタビューも先に読んでいたこともあり興味が増してもいたし、久しぶりに美術館/ギャラリーにも行きたかったし。家族3人で、いったん日比谷に出て、ランチをした後にお堀沿いを徒歩で竹橋へと向かう。

なおランチは、妻の勧めで日比谷ミッドタウンのLEXUSバー。なかなか美味しいしヘルシー。LEXUSを見直す。松の実とキヌアが混ざったキャロットラペ、自宅でもやってみよう。

お堀沿いは大変暑くて、着いた時は汗だく。入場制限も無くすんなり入れた。結構混んでいる。そして作品が密集しているのでやや居心地が悪い。かなり大きなサイズの作品が多いので、できれば全館使って、一つの壁に一作品くらいでやってほしかった。東京都心の美術館では到底無理な注文だろうけど。

ドイグの作品は、パっと見は復古的な具象絵画であり、手法やマチエールから支持体に到るまで特に変わったところもなく、時代錯誤的とも揶揄されそうな佇まいなのだけれど、「ターナー賞」受賞後も息長く活躍しており、現在では同時代ペインターの大家として美術史的にも、アートマーケットでも高い評価を得ている(代表作の一つは2015年のクリスティーズで約2600万USドル=当時約30億円で落札されたとのこと)。そのあたりの経緯や理由は調べておらず、少々謎めいた気持ちのまま、このたび代表作をまとめて見ることになった。

キャリアの初期作品から近年の作品という順に見て回ったが、寒々しい北の色味から南国の鮮やかなものへの変化が、最も外見的にわかりやすく現れている。それもそのはず、ドイグ本人はトリニダード・トバゴへ移住しているのだ。まさにゴーギャンを地で行く感じなのだが、文学者も美術家も「南」に魅せられた20世紀初頭ヨーロッパとのシンクロ感があって、なんだか懐かしいような感触。モチーフに目をやると、グロテスクな要素や、政治的な寓意も珍しいほど見当たらず。戦後の具象絵画というと戦争の影(ホロコーストとか)がつきっきりなのが当たり前なので、なんだか第一次世界大戦前の様な感覚になる。写真や映画をモチーフにしているあたりはリヒターやポルケの流れを汲んではいるのだが、如何せんその様な暗い影が無いので関連性は感じにくく、その辺が(静謐な具象絵画という点では共通している)リュックタイマンスとの大きな違いかなと。また、マルレーネデュマスやエリザベスペイトンみたいな実存的な主題や感情表出も無く、同時代的な題材も見当たらず。池に浮かぶボート、の様な光景を淡々とスタティックに描く、しかもシニカルにはならずに。もちろん戦後アメリカの抽象表現主義やカラーフィールドペインティングの残響はあるにはあるが、あくまで手法にとどまり、崇高性や大画面による威圧感と言ったものは受け継いではいない(画面分割がバーネットニューマンの影響云々と書いてあったが関連性は薄いかなと)。強いていうと、モチーフのサイジングや遠近感が不思議で、とぼけたゆるふわ感がアンリルソーなんかを連想させる。この様に捉えどころのない感じだが、筆致やカラーリング、構図は絵画の「旨味」を凝縮したかの様で妙に印象に残るし、その情緒の表出はアウラを感じさせるのに充分なのである。うーん。現代絵画にもリリシズムの余地が残っていたのだ、とか適当なことを言って、愉快な気分で美術館を後にした。

晩飯は自炊で、シメサバonレタス(解凍しただけだけど86点)、豚肉とジャガイモと玉ねぎのカレー炒め(所謂雑な男飯。78点)。幾多は最近よく食べる。人の茶碗から米ぶんどって食べたりする。将来が楽しみ。

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