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生まれながらのはずが外に出されて外からまた中にきた私が感じる違和感

私は西洋人の血を
少し受けて生まれたので
実は生まれながらの
クリスチャンでした

けれど母は信仰を
していなかったので
キリスト教の教育を
受けないで育ちました

ある意味
現在の一般的な
キリスト教の既成概念に
染まらないで育ち

何か真理への衝動だけ
残ったのです

その変わった?経路からなのか
個人的にはもちろん
私はある教団に所属してはおりますが
 
教会に所属すること
それがキリスト者の
最終目的地では
ないと思っています
 
というのは教会は一つだし
それに教会を超えて
聖なる言葉があるはずだし
言葉を超えてある
 
聖なる霊があるはずです
 
そして霊を超えて
聖なる心もあるはずです

人の一番重要な部分は
心といいます

霊にも中心的な心の
部分があるのだと思います

それを祈りで感じていく

本来ならそれをすべきなのに

もともと中にいたのに
外に出された私が
普通の感覚で世界をみてきて
中に戻ってきたとき

信仰が何か違うものに
向かっているのをすごく感じます

聖書に信仰が向かっていない
違和感を唱えたのが宗教改革でした

しかしそれで改革されたかといえば
分裂という混乱が残りました

宗教の中心に今は確かに
キリスト教はなっていますが
中身は内部分裂状態のままです

それが現実として日常として
捉えるような概念さえ信仰の
中にあるようです

祈ればそれがなくなるのですが
現実には分裂が結果として残っています

祈りの中でしか一つになれない
何かおかしな状態です

その原因は何かというと
結局のところ我々がキリスト者で
あるにしても

この世的には善なる聖なるもの
であったとしても

内なる人としては悪の中に
はまったところから抜け出せないでいる
そのままであるからです

仏教の修行という概念を経てきた
私だからかもしれませんが

キリストはすばらしいが
私達はキリストそのものでもない

だから修行的にキリストに近いものに
ならないといけないという部分

そこが弱いまま信仰ということが
ある種正当化されてこれでいいんだと
そうなっているように

思えます

科学を経てきた私は
神は非科学的だと科学者が
否定はしていないことも実は
知っていますが

科学的にみて信仰するだけで
キリストそのものにはなれないと感じます

私達の中に原因をつくらないと
結果がでてきません

信仰するといってもいろいろ言えてしまいます

教会に通うだけのクリスチャンを
サンデークリスチャンと揶揄する
言葉もあります

何をもって信仰としているのか
それを問いただしていかないと
私の信仰が深いものにはならないのは
科学的にも当たり前のことです

どうもそれが欠けているように
私も含めですが
どこか観念が間違っていて
そうなってしまっているのだと
そう思うのです


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