20230204@KAAT5F大スタジオ「視覚言語がつくる演劇のことば」について

 立春の夕暮れ時、娘二人を連れて、KAATの5Fに向かう。少しの待機時間の後、案内の方に促されて先頭で大スタジオの中に入ると、そこには一応の中心である高さ50センチほどの漆黒で正方形のステージがあり、その対角線のひとつの延長線上に、中心の物の四分の一ほどの大きさと見受けられる、同じく正方形のステージが二つある。その三つの正方形の関係から離れたところには木製のベンチが一つ。大人3人ほどが座れそうだ。

 薄暗い空間に集ったのは、老若男女40人ほどだろうか。
「テキストを読んでお待ちください」
この時、すでにパフォーマンスは始まっていた。

 テキストのタイトルは「夢の男」。二人の(あるいは一人の)男が登場する物語だ。一方の男が、私の体を探してほしいと頼み、二人は寂しい町をさまよう。物語を読み終えて、少し手持無沙汰な余白があった後、特別なシグナルもないうちに、出演の一人、斎藤陽道さんが姿を表す。ベンチに座る。わたしたちと同じく、テキストを読む。その静寂の中にわずかに聞こえる、物音。小さな正方形のステージ二つに、それぞれ男が立つ。スーツ姿は同じだが、背格好は似ても似つかない。一方は「夢の男」のテキストを朗読し、もう一方は手話でその物語を語る。音楽や効果音の類は無い。そのことがとても心地よい余白を、この空間に作り出していることに気づく。加算式の、加速度ばかりを競うエンターテインメントに満ち溢れている現代において、この余白は観客に、自身であり続けることを許してくれる。現実とのつながり、私たちが生きる上で日々体感している引力・重力をそのままに演劇=虚構に加担することで、自身という主体を忘却することなく没入することを実現してくれている。
いつしか男たちはそれぞれのステージをおりて、テキストに沿って、身体で物語を遂行し始める。客席、というか、私たちの座るフロアを、二人の男たちは駆け回り始める。手話で語っていた男は、漫画のような吹き出しプラカードを時折掲げながら。ここへ来ていよいよ、ステージと客席の境は無きものとなり、中心を失った虚構はわたしたちと共にある。
そして二人の男の歩み、小走りがもたらす振動が、私も体を直接に揺さぶり始める。妙に心地の良い震え。そしてそれに共振しているかのように、ざわめく心。あらかじめ用意されている余白が、私が私の震えに自覚的であることを許し、今、演じている男たちと自分の身体同士が、この震えを共有しているということに気づかせてくれる。共有感覚のもたらす、静かな幸福感。
二人の男たちの騒動が終わると、それまでベンチに座してテキストを読み、何事かを書き記していた斎藤さんのモノローグが始まる。自らのライフヒストリー。
「オーディズムって知っていますか?」
私は知らなかった。聴者の世界、音声言語によるコミュニケーションが出来なければ、一人前ではない、と切り捨てる考え方。聞こえていなくても、理解できなくても、うなずき続けることを求められる暴力的な教育。聞こえていない、分からない、音声言語の習得を強制された中学校までの時間。ろう学校で手話に出会い、初めて実感するコミュニケーション。彼にとって「夢の男」は、自らの中にある「聴者にあこがれる自分」と「ろう者としての自分」の物語に読める、という。テキストの最後、二人の男は融け合って行く。それは俯瞰した解釈で言えば、現代社会において引き裂かれている人間存在が、自己を再発見する物語といえるかもしれない。斎藤さんにとってはよりプライベートで、20歳以降、手話以外を使わなくなった自分という身体に共存する、二つの自我の葛藤と融和の物語だった。
 斎藤さんによる、テキストに対する批評行為を受けて、より自由度の高いパフォーマンスが始まる。暗転から明転、再度男たちが現れる。先ほど朗読していた男は、カジュアルな服装に変わっている。スーツ姿のままの男と二人、それぞれに日常的な所作をステージ上で重ねた後、二人はまた、わたしたちの間を駆け巡る。そのバイブレーションがもはや快楽で、私の体と心は、男たちよ、もっと近くへ、と密かに望んでいる。
この抽象性の高いパフォーマンスを、小学生の娘たちも楽しんでいた。時に、笑い声をあげながら。四方八方、脱中心化されたパフォーマンスに振り回されて、「首が痛くなった」とも。身体を感じることが実に気持ちよく、この上ない娯楽であること。演劇の鑑賞者としてその場にありながら、それを実感した1時間だった。


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