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映画「関心領域」の鑑賞メモ(ネタバレなし):「わたしたちは何を見せられたのか」

昨日、久々に平日の有休を取って、夫と共に新宿ピカデリーで映画を観にいきました。心の準備はしていたものの、あまりの衝撃にノックアウトされ、勢い余って13時間も寝ても余韻が収まらないので、心にあることを書き出しておきたいと思います。


はじめに

もともと、わたしは戦争の史実に関連した映画を観ることに対して、わりと勇気や気合いが要るタイプです。なので、夫がアウシュビッツの映画を一緒に観たいと言い出した時は、少々気が重くなり、抵抗感がありました。
でも、映画の予告を観たときに、その先入観はガラリと変わりました。
アウシュビッツ収容所そのものではなく、壁一枚を隔てた隣の裕福なドイツ人家庭を描いた作品。その文学的な切り口も斬新ですし、何より「アカデミー賞 音響賞」を受賞した点に惹かれました。「わたしも映画館でその『音響』をぜに体験してみたい!」という好奇心が湧き、観に行きました。

鑑賞メモ

この秀逸かつ衝撃的な作品をたくさんの人に直接観てほしいので、ネタバレはしないように、わたしが印象に残ったことだけを書きたいと思います。

映画の中で、「色」が象徴的な意味をもって使われていると感じました。

まずは「黒」。
冒頭から唐突にスクリーンが真っ暗になるシーン。それがむやみに長い。心が落ち着かなくなるほど異常な長さ。
また、終盤で主人公が歩む先の漆黒。ひたすら闇深い。たとえるなら、海の底に落ちて、どこまでも落ちて、まったく光の届かない海底に降り立ったような感覚でした。

そして「赤」。
予告映像にもある、次々にアップで映し出される美しい花々。花の美しさがこんなに無機質で残酷だと感じる瞬間があったでしょうか、というぐらいの迫力。
極めつけは最後の赤いダリア。
鮮やかな赤の華やかさが痛く、恐ろしい。徐々に花弁は輪郭を失い、スクリーン一面が一色となり、それは明らかに血の海を想起させました。
赤いダリアの花言葉を調べたら、「華麗」「栄華」という意味でした。
裕福なドイツ人家庭の「栄華」が、まさにユダヤ人たちの血の犠牲の上で、開花している様子と重なり合いました。

映像として描かれるドイツ人家庭の優雅な生活とは裏腹に、BGMのように流れ続ける収容所からの音。乾いた銃声や叫び声、けたたましく吠える犬の声など、ひとつひとつの音が、そこで起きている恐ろしいことを想起させます。それらと、スクリーンに映し出される明るく豊かな家庭生活とのギャップは、脳内に「不協和音」を生じさせました。

いちばんきつかったのは、エンドロールの音響です。
もはや「音楽」とは呼び難い、不協和音のメロディーが延々と続きます。音階もピッチもなく、ニュイーーーンとした音の連続。脳がねじり倒されるんじゃないかと思うほどのしんどい大音量が続き、目を開けていられなくなり、たぶん一瞬寝た?というか、気を失ったような感覚になりました。(ある映画館では退出者も出たと聞きました。)
わたしはもともと音やピッチに敏感なほうなので、あの不協和音は本当に「拷問」のようでした。アウシュビッツ収容所の人々が、一寸先も見えない四角い箱の中で、息を殺して死の恐怖におびえていたときの「脳波」を追体験したような感覚になりました。

匂い

裕福なドイツ人家庭の庭の壁の向こうに、
時折チラ見えする、火葬場の炎や黒い煙。
風の強い日に舞い散る白い灰。
始終泣き叫んでいる赤ちゃん。
一瞬たりとも落ち着かない黒い飼い犬。
死んだ人は一ミリも映らないのに、映画のスクリーンから「死臭」がずっと漂っていました。
ここでも、美しく緑豊かな庭の映像とのギャップがとても大きく、脳がバグりました。

映画の中の、とあるシーンで、サーモグラフィーで撮影された不思議な映像が流れました。抗えない非人道的な社会情勢の中で、リスクを冒してまでも、自分ができる精一杯の「よいこと」をしようと行動する少女の姿です。
熱のない暗い映像の中で、「少女の熱=エネルギー」とその「善行」だけは白く光っていました。運命を握られたいくばくもない命を必死でつなごうとする、一筋の希望と勇気。小さなろうそくの灯のように、両手で包んで、大切にしたくなるような気持ちになりました。

最後に

映画を観終わってしばらくしてから感じたこと。
描かれた、アウシュビッツ収容所とドイツ人家庭の庭を隔てる「壁」は、スマホやPC、テレビのスクリーンと重なると思いました。
メディア端末はたくさんのニュースを流しますが、それらが自分の「関心領域」と重ならないなら、そこからは色も音も匂いも熱も感じることはない。映画で見せつけられた違和感は、まさに日々目の前で起きていることなんだなあと。
スマホやPCのスクリーンの向こうには人がいて、苦しみがあって、助けを求めている。
あの少女のような「善きサマリア人」的な行いができるようになるには、そこで起きていることに対して、それを自分ごととして捉える「想像力」を持つことから始まるのではないか。我々ひとりひとりが意志と熱量をもって、自分のやれることに最大限取り組むなら、それは決してムダなことではなく、きっと何かを変えられるんじゃないかと思わされました。

監督、脚本家、俳優のみなさん始め、この映画に関わった全てのみなさまに感謝いたします。
たくさんの人に見てもらいたいと思う作品でした。



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