あるがままの価値

カジノ法案がどうこうなんかそれに関わってた人が横領(献金?)どうこう、そんなニュースをみた気がするので、思い付いたことを話そうかなという感じ。


っていう書き出しを書いて3ヶ月が経とうとしているのでわたしも物事を風化させようとする政治家と同じかもしれない。



お金と時間で解決できる問題は意外とあるものだ。



お金ってすごいよね。



異世界の人にとってはただの紙と金属なんだろうなぁ。


と思っている今日この頃。

もはや最近はただの数字でしかない場合もしばしば。
デジタルでの数字の変化が人を絶望に落としたりすることもできる時代だ。



ただの紙と金属でしかないものを私たちは価値があると信じて使用している
って考えるとお金ってただの概念なんだよなぁと。



まあここで冷静に考えると、


この発言、実に夢がないよね。




それはよいとして、日本人ってお金を汚いとするとこあるよね。(まあ最近はそんなこともないか。)
質素倹約を善とするような風習ってどこからきたんだろうね。



歴史を遡ればいつぞやの老中・水野忠邦が倹約令を出し、かつ株仲間の解散を行って物価を安定させようとしたという話がある。

まあ結局物価は安定せずに失敗に終わったらしいが。


この話がだいたい200年前くらいか。(歴史は授業で最も苦手だったので大目にみてくれ)


それぐらい前から倹約という言葉は存在しているということだ。



かくいう私もお金周りに関しては結構考える方であると思う。


月ごとの予算とか大体の収支もまとめるようにしているし、そういうところだけは結構真面目なのだ。



だからといって倹約家なわけでもない。
まあそのへんは別に個人の価値観に依存するものだ。
お金を使いたければ使えばいいし、何に使ってもよいし、使わなくてもよい。



人を上に立たせ、溺れさせ、時には沈める。


穢かろうが綺麗だろうが実物があろうがただの数字だろうが価値を持つのがお金である。



ただ、存在自体に価値を持つその普遍性に、一種の憧れに似た感情を抱いたりもするのである。
まあ時々価値がなくなったりするけどな、いつぞやのジンバブエドルのように…




うまくまとめることができなかったのでこの話はここで終わりである。

ただの紙と金属と数字が価値を持つ世界軸の話だ


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