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まるで子供のように。

秋は、ゆらぐ。

夏のような晴天かと思えば、次の日には悲しみを隠しきれず、優しい雨がしとしと降る。秋に生まれた私もどうやら同じで、いつも気持ちは日替わり定食のよう。秋本番にもなるといよいよで、毎日ころころ忙しい。どれくらいかっていうと、今日の決心が明日の不安に変わるくらい。

実りにみちて、美味しくて、気持ちの良い季節なのに、これほど好きな季節はないというのに、涼しい風がほほを撫でると、胸がはちきれそうになる。涙があふれてどうにかなりそうになる。私は、やわやわのよわよわになってしまう。涙は悲しみの浄化作用だなんて、誰が言うのか。次の日だって、うっとなる瞬間に涙がにじむに決まっている。そんな時には、空っぽの時間を、眠ってぐんぐん回すのが一番いい。

夏の終わりに星屑市で買った童話集に書いていた「月とあざらし」をふと思い出して、自分のちっぽけさを思い知る。季節や自然の変化に一喜一憂する、私は日々を過ごす生き物にすぎない。あらがってみても、存在の大きさには勝てやしない。だけど、時々それは優しくて、そっと小さな太鼓を渡してくれる。私は太鼓を嬉しそうに鳴らして、また日々を過ごす。

いつだって希望的観測がお得意だからけらけらしてみるれど、実は思っている以上に思い通りになんていってくれないから、なぐさめは自分で。そうやって毎年、秋の怪物にノックアウトされては「立つんだしょーこ!」と奮い立たせて、ここまできた。

少しずつ、打たれ強くなってきてわかったことは、「自分だ。」と開き直れる図太さを、実を言うと私は持ち合わせていたのだということ。それから、周りの人たちとげらげら笑い合えることがとてもよい気持ちだってこと。

そろそろ気づき始めている。秋は怪物なんかじゃなくて、他より少しやんちゃな天使だと。

雨上がりの道を歩いて、ヒックスヴィルを聴きながら。私はつくづくポップでファニーが自分の気分だとわかって、今年の秋を予感しては、踊り出しそうだ。


2016年09月26日

「サウダーヂな夜」という変わったカフェバーで創刊された「週刊私自身」がいつの間にか私の代名詞。岡山でひっそりといつも自分のことばかり書いてます。