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サウダーヂ。

この間のサウダーヂな夜は、とても気持ちよく呼吸をしているようだった。夜の街灯を背にして楽器の音が響いて、時代からこぼれ落ちてしまいそうな言葉が浮かんでは消え、東京スピーカーがそのムードに音をのせていく。ライブが終わった後も、その場にいる全員が楽しそうにそれぞれの時間を過ごして、にぎやかだけれど、後ろにはとても心地よい音楽が流れ続けていた。時々、これは何か、と聞くとよくわからない外国のアルバムを教えてくれる。私はうとうとして、自分の存在が雑踏にまぎれて消えていく気分がとても楽だった。あ、この感じ、サウダーヂだって思った。

そもそも、“サウダーヂ”とはポルトガル語で、哀愁・郷愁・切なさ・懐かしさ・思慕・愛する人への想い…、とにかく何とも言い難い、言葉にできないような気持ちを表す言葉らしい。共感って意味もあると城主から聞いた。話しは少し変わるけど、私は長いこと山の中で真っ暗闇な夜を過ごしてきた。母親から「イノシシに気をつけなさいよ。」と言われながら、影絵の世界をさまよっていた。時々、犬のヨネと花子を連れて孤独を紛らわせていたけど、ビビりな2匹と一緒じゃ真っ暗の不気味さまで紛らわすことはできなかった。いざ、怖いものが現れたとしても、きっと戦わないといけないのは私で、そんな時どうやってこの雑種2匹を抱えて逃げればよいのか頭の中でシュミレーションしながら散歩していた。だけど、それでも私は夜を歩くのが大好きだった。重たく光る星空にうっとなるのが好きだった。

そんな私にとって、サウダーヂな夜の灯りは、言うなれば旅先の酒場みたいな感じだ。そこには温もりがあり、誰かが集っていて、たくさんの夜が存在している。そして、“サウダーヂ”な音楽がいつも途切れることなく流れている。言葉の心地で音楽を聴いてきた私からすると、曖昧な、もっと簡単に言うとよくわからない音楽はとっても不思議だけど、どこか懐かしくて、気がつけば日常の情景に素知らぬ顔で馴染んでいる。ワルツのようなリズムで、右足を遠慮がちに踏み出してダンスを踊りたくなるような、そういう夜もあったし、うっとりとジャジーな夜もある。(私が言うとジャージー牛乳みたいだ。)周りの大人に触発されてラムのロックを頼んで、ちびりちびりとする夜も楽しいってことを知った。そんな風に夜を過ごしたからといって、私の明日が劇的に変わるような、そんなことは決してないけれど、それでも、そういう夜はあった方がいい。抑揚を望んで、私は時々、旅人のような気分で新しい夜にふれて地続きの明日を迎える。サウダーヂな夜は、毎日のサウダーヂが積み重なって、今日もきっとサウダーヂなんだと思う。

ああ、気がつけば前置きがずいぶんと長くなってしまったけれど、つまり何を言いたいかって、先週の増間のライブはとても素敵だったなあってこと。

2017年02月13日

「サウダーヂな夜」という変わったカフェバーで創刊された「週刊私自身」がいつの間にか私の代名詞。岡山でひっそりといつも自分のことばかり書いてます。