しょうもない話|RATAI
念のためアルファベットで書いてはみたが、要するに裸体のことである。
第一回目から何をとぼけたことを、とお思いの方もいらっしゃるかもしれないが、要介護系女子の生活は裸体と切っても切れない関係にあるのだ。というわけで記念すべき第一回は裸体に捧げておきたい。
人は服を着るのが好きだ。
裸で産み落とされたにも関わらず、生後間もなくして布に包まれるなど、人前に肌を晒すことなく年を重ねていく。生き物の中でこんなに恥ずかしがり屋なのは人間くらいのものであろう。私たち人間はあらゆる機会にありとあらゆる服を着て非裸体性を養ってゆく。
私もまた人前では肌を晒さないようにして生きてきたが、花も恥じらう乙女としてせっかく積み上げてきたこれらの実績は、被介護者の世界に足を踏み入れると共に儚くも消えてしまった。
私の中に咲いていた可憐な一輪の花は、病魔という嵐の中、その花びらを猛スピードで散らしてしまったのである。
裸体でいることを心から受け入れられるようになるまでにはいくつかの段階があった。中でも大きな転機となるのが入浴の際の被介護である。
要介護度の低い頃には当然恥じらいというものが存在し、極力人様に肌を見せないようにと何らかの努力を払うものである。たとえば入浴の際、初めの頃はなんとなく後ろを向いて服を脱いでみたり、タオルでどこかしらを隠してみたりしていた。
しかし要介護度が上がるにつれ、そのような恥じらいは全て無用の寵物と化したのである。
私の場合、入浴を始めとした介助を全て母に行ってもらっているのだが、毎回が戦場のような忙しなさである。まるでオペ室の外科医とナースのように、
「シャンプー!」「はい!」「お湯!」「はい!」「氷嚢!」「はい!」「リンス!」「はい!」
などと歯切れよく声を上げながら、被介護者と介助者とが連携し、入浴という一大ミッションをこなすのである。
健康な時にはそれほど気づかなかったのだが、入浴には本当に膨大な体力を要する。一日のほとんどをベットの上で過ごしている私には、夏の終わりの蚊ほどの体力しか備えられていない。そのため湯船に浸かるだけで胸の鼓動がドキドキと、それはもう告白前の女子中学生のように激しく脈打ち始めるのだ。
そんな女子中学生化現象を未然に防ぐべく、湯船に浸かる際には氷嚢を額などに当てて血管をダイレクトに冷やしている。下は大火事、上は大水ならぬ大氷で、なぞなぞ出題者も気軽に「これな~んだ?」とは聞きづらい雰囲気になってしまうのも致し方ない。
おまけに病気の都合上、皮膚に物が触れると大きな痛みを感じてしまうのだからややこしい。病状を悪化させないため、湯船の中には特殊な柔らかいマットを敷いて、その上に背中や足を乗せるなど工夫している。さらには靴下やナイロン製のスリッパを履いたまま湯船に浸かるという念の入れようだ。
これらを忘れるとじわじわと全身の痛みが増し、その後のQOLに如実に影響してくるのだから気が抜けない。ちなみにこれらのアイテムの利用には浮力が一役買っているのだが、この話はまた別の機会に詳しく書きたいと思う。
入浴の一大イベントといえばやはり洗髪である。
単純に湯船で座っていればいいだけの「いい湯だな」的行為とは一線を画す動作量であり、当然さらなる体力を要する。
おまけに私は物を触ったり関節を繰り返し動かしたりといった行為をこの忌まわしき奇病に封じられてしまっているため、網のように絡み合った毛髪越しに頭皮をゴシゴシ擦るなど、完全なる自殺行為なのである。というわけでもちろん、この工程もオペナース(母)に代行してもらう。
あらゆる工程を経て全ての体力を使い果たすと、必ず「もうこれ以上動けない」という瞬間が訪れる。X JAPANは「もう一人で歩けない」と歌っていたが、私の中のXのTOSHIもまた、時の風が強すぎて身動きが取れなくなってしまうのである。
するともう、何もかもがどうでもよくなってしまうというか、それどころではない状態になり、洗い場に横たわる以外の選択肢がなくなってしまう。
素っ裸のままお風呂用マットの上に横になり、息も絶え絶えに「…まっぱだカーニバル」と呟くと無性に笑えてきて仕方がない。古来から入浴には禊の役割があり、祭りには奉納の意味があったかと思うのだが、介護の神様へと捧ぐ祭りが我が家ではお祭り騒ぎで日夜執り行われているのである。
このように、要介護度が上がるに比例して人は裸体を隠すことを諦めるようになり、やがて素っ裸のまま平然と椅子に腰掛け、風呂上がりの涼風を受け止めるようになる。とはいえ冷えは万病の敵であることから靴下だけは身につけるので、変態度がまっぱだカーニバルの時よりも向上してしまうのは一つの問題点である。
ところで、素っ裸でいることに慣れてしまうと、いくら服を脱いでいようとも、「肌」という服を着ているような気になってくるから不思議なものである。肉体はあくまで自分を入れておくための器であり、自分本体は心や頭にあると感じるようになるのだ。
身体が不自由であるからこその視点というか、なかなか通常時には得られない感覚である。喪失のようでありながら何かを得ているようでもあり、割と面白いと思う。
こうして私はますます裸体への抵抗を失くしていくのであった。
HAPPY LUCKY LOVE SMILE PEACE DREAM !! (アンミカさんが寝る前に唱えている言葉)💞