「係争中」でも言葉は蠢いている

 深く関わってきた人たちの間で重大なハラスメントがあったことが昨年11月に報じられてから一年が経ちました。
 
 自分自身も無関係でない、その暴力が生まれる構造そのものに対して、その近さゆえにどう振る舞うか、どう言葉を紡ぐべきかを考え、時に言葉を発すればただちに分断が生まれるという事態がありつつ、でも、この件は確かな証拠や証言もあり、「なかった」ということはまずもってあり得ないという確信をもって、被害に遭ってきた人たちとやりとりを重ねてきました。

 でも、「係争中」、つまり裁判というシステムに言葉の行く末が移行するなか、自由にこのことを、相手を言い負かすとか、自分が脅かされるのではないかとか、そういうことをできる限り抜きに対話をする機会が確実に減っていくなかで、以前よりも言葉が少なくなり、どこかで忘れていく、あるいは「もう熱りが冷めた」として、なかったことのように再びこの暴力の構造が温存されてゆくような嫌な予感がしてなりません。

 表出される言葉が仮に少なく見えたとしても、この係争中の期間にも、数々の言葉が、悲痛や怒りの言葉が蠢いているのだという想像力が余計に問われるのかもしれません。

 一方で、「ここではこの話をしないでおこう」的な空気を保ちながら、その空気を保つことがあたかも「倫理的な配慮」のように感じつつ、互いを傷つけないで淡々とやれる仕事はやりましょう的なことにも、耐えるのが結構難しいなぁと感じることもあります。人間ですから。

 「人にはいろんな面がある」。割と強くそういう考えのもとで生きてきた部類であるという自覚もあるんですが、「それはそれ、これはこれ」といえることに対する自分の許容度が低くなっているのか、というよりは言葉が悪いですが「これは根っこの部分でクズだな」と思えるような相手に対して、「でも他では頑張っている」みたいな言説に対してウンザリする機会もやっぱり増えてしまいますね。

 でも、それは自分だってそうなる可能性がある。だから自律しつつ、でもその自律は常に、平たく言えば「仲間」たちに見張ってもらわないといけない、そのために、様々な関係に誠実にならないといけないと思います。できているかわからないし、自信ないけど、そうやって共に繋がりあって生きていくことでこそ、自分が自分であれるのかもしれない。

 とにかく、つどつど言い続けることは大切。なかったことにしないことは大切。それは関わった人たちの責任だと思う。

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