社不

 たぶん、私は社会的に要らない人間なのだと思う。

 黙って、意味なく同じことが出来ない。誰でもできるけれど誰かがやらなければいけない仕事に対するやる気がない。一瞬耐えるが、最後はものの見事に爆発して終わる。根本的に協調性がない。人と本気で仲良くなれない。信用していないから。上っ面で話そうと思えば何処まででも話せるけれど、末長く仲良くしようと思うと途端に何を話せばいいか分からなくなる。バイト先でもお客様とめちゃくちゃ仲良くなる。対照的に中の人とどんどん仲が悪くなっていく。険悪まで行かないけれど、呆れのような空気感が漂ってきて、最終的に意思疎通が難しくなってくる。別に美人なわけでもないが、寧ろ大して美人じゃないから舐められる。総じて気が付けば他人に軽視されていて、勿論私には言いやすいこともあるから他人の情報は流れて来やすいけれど、別にそれをまた違う人に告げ口するわけでも無く、所詮私はただの掃き溜めになる。暴言交じりの冗談を、毎日違う人から、まるで誕生日のパイ投げのようにぶつけられる。私は笑うしかない。笑わなければもっとヤバいことになる。吐いて、ぶつけて、他人は私ごと捨てていく。確かに困っている人を助けるのは感謝されるのが心地いいからで、いつか助けて欲しいからというのが理由ではないけれど、いくら助けても、後に私が困った時に身を投げうってまで助けてくれる人はいない。私が困っているとき、私はいつもひとりで解決するか諦めて終わる。一度助けを乞うた時に拒否されて以来人を頼っていない。余りにも絶望的なまでに人望が無い。恐らく毎度どこかで何か地雷を踏んでいる。それか完全に慈善活動だと思われている。勝手に空回っているように見えるのかもしれない。そして、その時私が空回った問題は、後で同じ質量で助けてくれなかったその場の他人へと圧し掛かっている。捨て駒にもならない。私が生きる空間は、常に虚無だ。寧ろ怒らせて困らせているからマイナスなのか。いらない子だ。ずっと。両親は私が居ない間、ふたりで大声で笑いながら話している。二階の自室へと一階の真下にあるリビングから反響する笑い声を、いつも寝転がりながら聞いている。私が入って三人になると途端に揉める。なんで産んだ。二人だったら今も全て思い通りだったろうし、部屋も一部屋空いて、お金も無駄に払わなくて済んで、その分旅行だってできただろうし、私だってここまで、こんな。

 けれどこの社会に不適合な性質の全てを、治したところでどうなるんだとも思っている。社会にフィットしたから、だから生きやすくなるのかと言われればきっとそうではなくて、だけど、フィットしないと誰も取り合ってくれない。分かっているけれど、どちらかしかないのが気にくわないような気もする。けれどお金を貰えなければ、この世では生きていけない。27歳までに死ぬだろうなとどこかで思っていたけれど、まさか野垂れ死にの可能性は考えていなくて、そろそろ22歳になるというのに、もうあと5年も生きられないような気配を感じ始めている。これといって目立った病気があるわけでもない、我慢すればきっとどこかではどうにかなる。けど、我慢したところで、いつか幸せになれる保証も無いのに。

 結局私だって、私のことは要らないと思っている。これといってやりたいこともない。生きた方が良い雰囲気だから生きている。ギリギリ。たぶん社会的に死ぬ雰囲気だったらとっくの昔に死んでいた。本当は誰も何もしなくていいはずの世界なのに、何だか何かしなければいけない空気が抗えない程に流れている。しんどい。怖い。来世も今生だったらどうしようと思う。そもそも幸せの定義も怪しい私には、きっと何も見つけられないのかもしれない。あたたかいふとんでねむりたい。冷えた足先を温めてほしい。気を抜いても眠れる場所に居たい。ここ4、5年、安心して眠った試しがない。そもそも安心して寝るってどうやるんだ。小さなころからずっと、ダブルベッドの狭間とか、ベビーカーとか、寝ていたのはそんな場所ばっかりだ。ヨギボーでも買うか? だからお金が。

 人間は普通、天井を見つめると思考が鈍るらしい。私は天井を見るとき、まず天井に描かれた柄のことを考えて、その後、ずっとどうしようと思っている。どうしようもないことを、ずっとどうしようと考えている。明日はどうしよう、と思っている。

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