病垂れにカスミソウ

 正直もう、全てにおいてどうにもならないような気がしている。ずっと。夢だと分かりながら見る夢にも慣れてしまったし、躊躇い無く人を殴る感覚にも飽きてしまった。今更どうにかしたいとも思っていない。寧ろこれ以上、どうにもしたくないのかもしれない。名前の分からない花の一種類を束ねて形作られた花束を、地面にぽっかりと空いた奈落へと放る。私しかいない空間には、昨晩眠る前に放った可燃ごみの袋と同じ音が響く。花束を捨てたことが無いから、別の音でイメージを補填するしか無かったらしい。花束にしては重たすぎる音だった。私の脳味噌は今日も随分といい加減だ。今し方手に持っていた花束の形も、もう思い出せなくなっている。場面が、何の前触れも無く変化する。木製の椅子の背を引いて座れば、バーカウンターから酒が差し出された。度数の高そうな酒。ロック。飲むのを躊躇いそうになって、また、これが夢であることを思い出す。グラスに口を付けると、冷たかった。恐らく現実の自分は、ヘッドボードから滑り落ちたスマートフォンでも咥えている。グラスで揺れる琥珀色に味は無い。飲んだことが無いからだ。無いものは無いし、あまり覚えていない物は出てこない。かなり真剣に念じて、やっとバーカウンターの向こう側から白い角皿にチョコレートが二粒だけ差し出された。ひとつ口に入れる。最近食べたチョコレートが間違って買ったビターチョコレートだったことを思い出して、顔を顰めた。
「お姉さん、ひとり?」
 そんな、夢でさえひとりで度数の高い酒をロックで嗜む女であってたまるか、と思って取り敢えず黙って隣に座る顔の分からない推定男の髪に手をのばして梳いておく。今日は何となく可愛がりたい気分だった。癖のない猫っ毛が、自分の細い指の間を滑る。恐らく部屋の手身近なぬいぐるみの毛でも梳いている。男は、擽ったそうに目尻の皺を深めて笑う。髪を梳いていた手の甲から、男の細くて長い指が絡む。何となく、ただぼんやりと愛おしさのようなものが肺を中心に身体の中で膨らんで、この感覚は久しいな、と思った。どこかで得たことのある感覚のような気がした。気のせいかもしれない。夢だということは分かるけれど、夢を見ている間、現実のことは基本的に思い出せない。別に不自由はないから、いつもそのままにしている。幸せの輪郭さえ現実へと引き摺って目を覚ますことができれば、それでいい。ひとつ前の夢は、やけに広い四階建て相当の旅館を只管に逃げ回る夢だったから、今回の夢はどちらかといえば当たりなのだ。前回見た悪夢の原因は何だったろうか。ただ、きっと現実で起こった何かがきっかけになり、その結果凄まじい不安感が確かな重圧をもって脳内を駆け巡った。不安を無理矢理抑え込んだまま眠れば、いわずもがな、何者かも分からない何かとの追いかけっこが始まる。明晰夢なのだから逃げなければいいのに、何故かあの瞬間だけ、どうしても足がいうことを聞かない。夢に潜ってしまえば何を起因としたものなのかも忘れてしまうのにもかかわらず、心臓を覆っている原因不明の焦燥感に煽られて、気付けば大して体力も無いのに全力で走り出している。不安に頭をもっていかれそうになって、背もたれの消えた椅子から落ちないぎりぎりまで身体をのばした。男の首筋に擦り寄る。背骨を覆う肌に骨ばった指先が触れ、抱き寄せられる感覚があった。男が纏う植物系の甘い香りで肺を満たす。酸素の代わりに甘さが巡って、頬に男の髪が触れる。相手が何を考えているかは、いつも分からない。けれど、きっと私を貶めるつもりでもないような気がしている。
 意識が覚醒している気配はするけれど、目に痛い光は射し込んでいない。カーテンは閉まってままになっている。目を瞑ったまま、見事に本来の位置から大移動していたスマートフォンを探り当て、薄目で最大量のブルーライトを受け止めながら時間を確認したところで、これが既に三度寝であることを思い出した。スマートフォンのロックを指紋で解除し、友人の誰からも連絡が来ていないことを確認してもう一度ヘッドボードへ叩きつける。残っているタスクがあると上手く眠れないから確認しているだけで、実際のところ連絡先を埋めている友人は全てどうでもいい人間の塊だ。昔に一度、やけになって連絡先を全部消したら死亡説が浮上して、逆に元の数より連絡先が増えてしまったからもうこれ以上は触らないことにしている。こんなもの、プラナリアと一緒だ。勝手に増える。気が付けば無限に増えている。そのくせ私に何かあったとて、誰も助けに来てはくれない。大事なことは何も教えてくれない。プラナリアより無駄だ。前回の悪夢は、半分くらい私のせいではない。締め切り直前で気が付いてしまったレポートは、きっと出しても出さなくても私の今後の人生に何の意味も無くて、だけれど不安を煽るには十分な質量を持っていた。今更考えたところで終わることはないのだからと目を背けた様々な案件が、明らかに昨晩見た悪夢の原因だった。二度寝した時には珍しく夢を見られなくて、三度寝にして、ようやく当たりを引くことができた。当たりの根幹を形作っていた男に関しては、きっともう会えないだろうけれど。目を瞑り、柔い髪の感覚をゆっくりと思い出す。知り合いに、猫っ毛をした人間はいない。今更、やっぱり知らない男だったことに気が付く。当たり前だ。今生であんなに強い酒を飲んだことはないし、私は人に滅多と触らない。前世かな、と思う。夢の全てが、前世の回想であればいいと思う。どうか私のような人間であっても、前世では幸せな人生を過ごしていてくれ。人の温もりその他諸々、今生では全くもって手に入らなさそうな気配がずっとしている。もう殆ど手に入れることを諦めてしまっている。今の私が生きる現実において、物事は、それが真心でも下心でも、心が絡むと途端に厄介なものへと変貌するようにできている。面倒事しかない。正直なところ面倒事は避けたい。けれど欲は、できるだけ満たしたい。不用意な行動はできるだけしたくない。ないないづくしに加えて最悪な私に、明晰夢は最高のぬるま湯だった。夢に浸ってさえいれば、現実でも何とか、汎用性の高い幸せの形を掴むことが出来ていた。私を含めた全て、どうにもなっていないからこその幸せだった。
 目を開けると男がいて、手をのばせば触れられるくらいすぐ近くで向かい合って座っていた。場所は私が住んでいるマンションの一室で、だけど広さが少し違う。しかし確かに私が住むマンションの一室だった。纏っている空気が等しい。よくあることだ。自分の住んでいる空間について、人は案外詳細に覚えていないものなのかもしれない。これは夢。
 私の頭を撫でながら目尻に皺を寄せて微笑む男は、一体何度私の部屋を訪れたことがあるのだろうか。私からはどの程度触れていいのか分からなくなって躊躇っていると、徐に立ち上がった男に抱きあげられてベッドの上へと運ばれる。自分の喉の奥から知らない音が発せられて、遅れて、自分が男の名前を呼んだことに気が付く。男はゆっくりと近づいて私に柔く口付けた後、隣の部屋へと消えていった。
見知ったベッドに倒れ込む。いつもよりマットレスが硬い気がする。叩くと、天井へ向かって埃が舞った。光に照らされてきらきらと輝いている。いつもならこんなことはしないけれど、夢だからと思えば途端に楽しくなって、視界が全て煌めくくらいに埃を散らす。用事が済んだのか戻ってきた男の頭にも降り積もってしまっていたから、近づいてきた旋毛を軽く梳いてやる。癖のない猫っ毛はするすると、光と共に、指から解けてすり抜けていく。男の髪にあった埃が微かに舞う。スローモーションのように地面へと落ちていく光の欠片を眺めているうち、男の顔がぐっと近づいて、目を瞑ると、口の中へと何かが捩じ込まれた。深く、押し込められる。口の中を、男の細くて長い、骨ばった指が掠める。噎せ返るような香りが、喉奥を伝って鼻腔へと抜けていく。男の首筋のからしていた香りに似ている、と思った。この香りがいつしていたものかは思い出せない。懐かしくて、大好きな香りだと思った。苦しくは無い。ただ、明らかに私の息は止まってしまっている。そんな気配がしている。夢だから、何ともない。目を開ける。歪んだ表情をした男が、視界に映る小さな白い花々の隙間から私を見下ろしていた。
 きっと続きだったのに、続きだったことにも夢の中では気が付けない。それが少し悔しい。目が覚めてしまってから思う。分かっていたら、あの瞬間、真っ先に手をのばして抱きしめてあげられたのに。現実に戻ってきてしまったのだから、今更、もうどうにもならないのだ。幾度となく梳いていたはずの猫っ毛の感覚も既に曖昧で、こうして、きっといつか見た夢の全てを思い出せなくなる日が来るような気がしている。カーテンの向こう側は暗い。寝転んだまま、マットレスを思いきり殴った。埃が舞った影は見えず、鼻だけがむず痒くなる。部屋の明かりをつけようかと思ってヘッドボードを探ったけれど、結局スマートフォンしか見つからなかった。惰性のままブルーライトを受け止めて連絡を確認すると、何故今日のガイダンスに来なかったのかを問う言葉が並んでいる。感情が呆れを通り越した。幸せが霞むから本当にやめてくれと思う。本当に役に立たない。終わってからする連絡ほど、無駄なものは無い。ベッドの上で転がったまま、スマートフォンを限界まで遠くへと投げ飛ばした。固いものがフローリングへとぶつかる大きな音が響いて、ふっと静かになる。外の世界に触れる度、どこもかしこも、私ではどうしようもない他人の力で回っているらしいことを悟る。いつか私も他人を動かせる人間になれると思っていたけれど、どうやら違うらしいことにある時から気が付き始め、二十歳を超えてからは、そもそも大人になったからといって急激に何か人間性が大きく変化するわけではないのだということにはっきりと気が付いてしまった。次第に何もする気がなくなった。頑張ったところで、立ち位置は大して変わらない。どこにいても、現実の私はずっと搾取されるだけの人間だ。真剣に念じたところで、たった二粒のチョコレートさえ誰からも貰えない。念じるまでもなく、ありったけの幸せを手にする人だってこの世には存在するのにもかかわらず。我慢しても頑張っても何も手に入らないのだから、何もしないのがきっと自分にも世界にも優しいはずだ。そう思い込み、夢を見る。病気ですらない私を、治す方法は無い。目を瞑り、私は自分の頭を目一杯の力で殴った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?