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【シャーマニズムと妖怪】

● はじめに
 
 私が「妖怪」という存在について初めて出逢ったのは、我が本家の蔵に保存されていた井上円了との出逢いである。そこから柳田國男による妖怪研究に関する書物、そして鳥山石燕の画集に出逢っていった。
 その旧家の古風な土蔵は、観音堂のある山に面したまさにマージナルな場所に建てられていた。私は幼年期、小窓からの木漏れ日が微かに差し込み、黴臭い埃が、まるで海中の微生物の様にちりちりとまい漂う中を、懐中電灯を一つ持ち、肝試しでもするような気分でそこに迷いこんでいった。そして旧仮名遣いで書かれた、見るからに妖艶な書物に記されていた様々な異形の者達について、伯父の解説を受けながら読みふけった記憶がある。
 それからというもの、異界と現世の境界を漂う妖しき百鬼夜行に魅了されたままいる。
   
 「妖怪」は反復再生される。
 私の人生の中で既に何度もの「妖怪ブーム」が起こっている。
 暫く前にも水木しげる先生の『ゲゲゲの女房』がヒットし、再び着目さている。
 姿を変えずに、幾度と無く人の心に「同様の形象」で顕れる「妖怪」というものは、一体なんなのであろうか。
 一般的に「妖怪」の顕出は古神道とされている。
 しかし、この「反復再生」にはなにかしらに「媒介者」が存在しているような気がした。その為、「アニミズム」の見地からではなく「シャーマニズム」の側面から研究したいと考えている。

●「シャーマニズム」と「アニミズム」

 シャーマニズムについて考察する上で問題となるのは、殆ど同様の信仰的思想を持つアニミズム(古神道)である。
 この二つの信仰、あるいは宗教は、狩猟土器の発掘などからも、旧石器時代から存在するとされている最古のものであると推測される。またに発生地点にも多くの共通点が見受けられる。
 しかし、双方を共通項のみで、一つの信仰として捉えることは多くの学説の中でも問題視されている為、事象、現象、伝承等ごとにこの二つの信仰を個別に考察していくしかない。
 また、双方とも本来は「イズム」という枠中に収める問題ではないといえよう。何故なら、「シャーマニズム」は明確な教義や教典を持たない、人間の共通的無意識から発芽する信仰そのもであり、主義という枠組みに収めてはいけないのだ。
 しかし、日本のシャーマニズムを考察する上で、勝手ながら名義上の概要を与えた上で論を進めたい。

 『アニミズム(古神道)』
  =古代の日本人が、自我と外部に広がる世界を認識した時に、共同体の内部で無意識的に共有される発生した原的信仰。
 『シャーマニズム』
  =森羅万象との媒介者となる「シャーマン」を通して共同体の内部で無意識的に共有される原始的信仰。

● シャーマンの思想

『人間が知るのは、それが自らあらわれ、しかも俗なるものとは全く違った何かであると判るからである』=「聖体示現(テオファニー)」—(聖と俗)

 聖体示現とは自然、例えば、石そのもの(聖なる石)樹木そのもの(聖なる樹木)の崇拝ではない。
 人間が感ずる、聖なるもの〈全く別の物〉、超自然的な現実の崇拝を示す。

 「コスモス(宇宙的)=内界・我々の住む空間」
 人の住む、秩序ある空間。神々との交流によって生まれる。

 「カオス(混沌)=外界・未知の空間」
 善意や悪意の霊魂を持った自然に満ちた世界。幽霊や魔物など〈よそ物〉の空間。

 シャーマンの思考では、森羅万象には「霊」が宿ると考えられている。またその「霊」とは現象の「本質」を意味する。その「本質」とはモノをモノたらしめているものである。言い換えれば内界、つまり我々の個人的自我を形成する「意識」と考えることができる。
 つまり、外部にある自然、樹木、鉱石、海洋、風雨、更には器物ですらその「意識」を持ち合わせている事になる。
 そして、外界の「意識」=「霊」を持った自然との接触を行い、媒介者(メディア)になるのがシャーマンである。
 また、シャーマンは自己の肉体から「霊」を解き放つ能力を持ち「魂の旅」によって、様々な霊と接触し、最終的には天と地を結ぶ小宇宙になる。あるいは、宇宙そのものになる。

● シャーマンの行為

 シャーマンは、様々な役割を担う存在。
 神霊を自己に憑依させて語らせる。または、自らの魂魄を身体から離脱させる。
 
 呪医(医師)
 妖術師(祭司)
 媒介者(メディア)
 村落の中心的存在(統治者)
 
 シャーマンは森羅万象の霊の力を理解し、そこに働きかける。
 霊は時に「善」にも「悪」にも成り得る。
 その為、生命(内界)と自然(外界)と時には共存し、時には対立し、互いの相互関係を成立させ、共同体の利益に繋がる働きを行う。

● 縄文土器とシャーマンの装飾

『シャーマンの衣装・装飾文化こそが王権の衣装・装飾文化の起源に位置する。(中略)シャーマンの装飾が語るものは、一般常民の共同の心的幻想が集約されている』—(「重ね」と「嵌めこみ」の造形喩法をめぐって)

 縄文晩期の東北地方に発達した「亀ケ岡文化」にみられる土偶は、文様や装飾品をシャーマンの衣装と比較していくと、類似点が多く見られる。

 このようなシャーマンの身体装飾を鶴岡真弓氏は『生命デザイン』と呼び、人間のプリミティブな思想から発生した最も原始的なものであり、重要であるとしている。またそれは多彩性をもつ「魂」そのものの表現形態だと考察している。

 ここからは推論になるが、この様な森羅万象を文様として表現したシャーマンの縄文土器が多く残されている理由は、単なる権威の偶像化とは異なるように思える。
 シャーマニズムの思想が共有されることにより、実用性を持った道具としての役割に、自然との交信から受け取った「魂」が文様として無意識的に刻まれている。そしてシャーマンの土偶は「崇拝」ではなく純粋な「表現」として生み出されたように思える。信仰形態から推測しても「器物」であってもそこには「魂」があり、シャーマンの土偶もまた「意識」を持った存在だったのだろう。

●修験道とシャーマニズム
 
 日本のシャーマンは各地において多彩に展開されているが、「妖怪」というテーマにおいて考察していく上で、アニミズムとシャーマニズムの合致点である、修験道を取り上げたい。

「修験道」=山岳を神霊、祖霊などの住まう霊地として拝めた山岳信仰(アニミズム)と、シャーマニズム、道教、密教などの影響をもとにし、平安末期に「役小角」によって確立された宗教。
      

「道教」=漢民族の土着的宗教。儒教の神道、中国仏教等の融合から発生。
(道・タオ)宇宙と人生の普遍的真理

「巫師」「祈祷師」
シャーマニズムからの発生。

 里の人が霊地、異界とした山岳に入り、自己の守護仏を求む修行を行い、神々との交信などの超自然的な力の獲得を目的とする。
 またその力をもとに、巫術や呪術を行う。
 
 加持祈祷
 堂社の祭司
 治病
 雨乞

 また諸霊、火の操作、飛行能力を行う。
 修行には「生と死のモチーフ」がある。
 これらの行為からみるとやはりシャーマニズムの特色が強く見られる。
  
● 平安京のシャーマン「陰陽師」と「付喪神」

「陰陽道」=古神道、道教、仏教、修験道などが融合されてできた呪術的宗教。
自然哲学、陰陽五行説などを含み日本独自のものとして完成。

平安時代「呪術的側面の強調」

「陰陽五行説」=宇宙理論・形而上学的側面。
        自然観察・暦の作成等の科学的・実用的側面。
        招福・除災の祭司としての側面。 

「陰陽師」=器物に魂を与え、式神を操り邪気を払う。また、平安京では官職としてのポジションが与えられ、政治的にも多大な存在であった。
 同時に、薬草や魂を操ることにより「憑物落とし」を行った。
 最も有名な陰陽師には「安倍晴明」が挙げられる。

 『不動利益縁起絵巻』で安倍晴明は、悪鬼、疫病の神=「五徳」(鉄輪)「文机」「角だらい」を頭にして擬人化、獣化した体を持つ「付喪神」を相手にして、晴明は祭壇の前で、式神を操り、祈祷を読み、この異形の者達を退治する。
 
「付喪神」
 室町時代の御伽草子『付喪神記』の有名な一節に、

『陰陽雑記に云ふ。器物百年を経て化して精霊を経てより人の心を誑かす。これを付喪神と号す。』

とある。この物語には、煤払いによって洛中から洛外へと追いやられた器物たちが魂を持って、住む場所を求め京の北東の長坂の奥を拠点とし、闇の京都を跋扈し、壮大な祝祭のパレードを開催する様子が記されている。日本のアニミズムでは「神」と「鬼」を明確に善悪の対立構造に収めることができない。それを踏まえ澁澤龍彦氏は次のように述べる。

『我が国最大の説話文学である『今昔物語集』の、主として巻二十七「霊鬼」篇に含まれる数々の怪異譚は、善意にまれ悪意にまれ、自然に対するアニミズム的信仰がまだ完全に生きていた時代の物語である。(中略)水とか、柱とか、銅器とか、板とか、油瓶とかいった生命のない物体に、世人が、霊の存在を認めていなければ成立し得ない物語であろう。私はここで、アニミズム的な日本の典型的かつ最終的な妖怪の表現として、百鬼夜行絵巻を思い出さないわけには行かない。』—(幻妖のコスモロジー)

 恐らくここで澁澤氏が言う「百鬼夜行絵巻」とは、数多く存在する中の一つ、室町中期(推定)に描かれたとする、伝土佐光信の『百鬼夜行絵巻』の事であろう。澁澤はアニミズムから発芽した妖怪の終着点に百鬼夜行を見出したのである。
 そうだとすればシャーマンの、器物にはそれ相応の役割としての霊が宿る、という思考も見捨てることはできない。
 付喪神は「九十九神」とも表記される。またその語源的背景には「九十九髪」という言葉がある。九十九髪とは、老女の白髪の事であり、そこに白髪の最後の一本を含めば、おびただしいという量的な意味合いである、「百」へと近づく、という意味を持つ。つまり、長生きしたものは神になるという意味である。これが、付喪神の思考のベースである。
 しかし、「九十九」から「付喪」へと言語が置き換えられている点にはもっと深い意味がある。九十九では、器物のみならず長寿のものには、凡て神が宿るという意味になってしまう事から、それを器物の怪異として収める為に「付喪」の当て字にされている。
 この物質に魂魄を見出す信仰が、アニミズム、シャーマニズムの信仰であり、古代日本人の様々な器物へのフェティッシュだ。今現在の我々の深層心理にも存在する、長年使い古されたモノへの愛着が、付喪神なのである。

● 江戸の妖怪画にみえるシャーマニズム

 「付喪神」または「妖怪」という存在の背景に在るのは、日本人古来のアニミズム思考であるとされるのが一般的である。古神道の森羅万象に魂が宿る、という信仰が妖怪の原型である。澁澤龍彦氏は妖怪の顕出について次の様に述べている。

『古代人の世界観のアニミズムには、自然の善意を信ずる方向と、自然の悪意を信じる方法との、二つのオリエンテーションがあったように思われる。のちになって、前者は寓話と結びつき、後者は幽霊や妖怪や悪鬼の物語と結びつくことになった。』—(幻妖のコスモロジー)

 更に渋沢氏は、善と悪という二つのオリエンテーションの厳密な区別は容易ではない、という記述を残している。確かに澁澤のいう善悪の対立構造で考察すると、妖怪という存在に歪みが生じる。日本の古神道的思考では、「神」=有益を齎す物。「妖怪」=害悪を齎す物。という思考は通用しない。
 この解説には、柳田國男が『遠野物語』に収められた「ザシキワラシ」という怪異が的確であろう。ザシキワラシは屋敷に取り憑く精霊的存在で、悪戯を起こすものの、その姿を目撃したものには、幸運が訪れる、という伝説は有名である。また、『常陸国風土記』に収められた、人々に死や災いを齎す怪物が「闇刀の神」とされている。

 つまり、日本における「妖怪」の概念とは常に、善と悪の渾然一体、もしくは表裏一体であるといえよう。
 そのような背景の上で『付喪雑記』という御伽草子は、『百鬼行絵巻』という、より深みを持った絵画的表現によって像を与えられた。そして、付喪神たちは、鬼や神から「妖怪」への変貌を近づける。
 しかし、私はここで明確に百鬼夜行や付喪神が「妖怪」である、と明言しない。その理由は、江戸時代に成熟した妖怪画のように、外部と内部の融合がまだ完璧ではないと考えるためである。百鬼夜行絵巻では「洛中」と「洛外」との融合が未だ不完全であると言い換えることが出来るだろう。
 その所以には、百鬼夜行絵巻の特徴として、二つの要因「物語性」と「無名の付喪神」という事が挙げられるからである。

● 鳥山石燕と付喪神

 鳥山石燕(1712〜1788)とは、江戸中期に、江戸・根須において活躍した浮世絵師である。狩野玉燕に手ほどきを受け、板本、挿画、つまり絵本の分野において画才を発揮した。又は、俳人としても知られていた。門下に喜多川歌麿、恋川春町などを輩出し、江戸の文化サロンにおいて一目を置かれた存在であったとされている。
 主な作品に、『石燕画譜』『水滸画潜覧』『絵事比肩』等がある。
 そして、最も有名な代表作として『画図百鬼夜行』(安永5年)『今昔画図続百鬼』(安永8年)『今昔百鬼拾遺』(安永10年)『百器徒然袋』(天明4年)がある。
 この『画図百鬼夜行』全四部作の妙技、またその多大な反響により、江戸随一の妖怪絵師とされている。

 石燕は『画図百鬼夜行』の中に、伝土佐光信の『百鬼夜行絵巻』の付喪神達を、妖怪として数多く書き残している。中には構図や容姿をそのままコピーした様なものも存在する。京極夏彦氏は「妖怪」の成立について、

『像のないモノに像を与える。名もないモノに名を与える。その両方の行為がなされない限り、妖怪はこの世の内側で妖怪として認識されない。』—(絵本百物語の妖怪画)

と述べているように、器物から鬼になった付喪神たちは、ある者は手足が持ち、ある者は表情まで持ち合わせ、ある種擬人化された様な「像」を持ち合わせている。

 しかし、滑稽にも見える、祝祭の行列を行っている彼らは、元々は食器であり、楽器であったりとした事が解るのみである。つまり無意識の中にある薄ぼんやりとしたイメージだけは先行しているが、「名」が存在しないのである。
 そこで鳥山石燕の『画図百鬼夜行』が大きな意味を持つ。石燕は付喪神たちの行列を、一旦解体し各々を個別化させることで、名前を与える作業を行ったのである。つまり、付喪神たちを絵巻物という物語から、図鑑化する事で「妖怪」として現実への定着を行ったのである。
 中沢新一氏はこの様な図鑑化された妖怪画が生まれた傾向を、形態化を好む江戸時代の人間のプリミティブな感性として、博物学的な見地を絡めながら考察している。

『江戸時代につくられたたくさんの妖怪画にあらわれているのは、昔ながらの「もののけ」に対する恐怖心とはちょっとちがう、「もののけ」の世界にむけられた新しい近代的なタイプの理性の登場なのである。博物学的な理性、そう、それは昔ながらのフォークロアの世界よりもむしろこの時代に生まれつつあった新しい科学精神である博物学のほうに、密接なつながりをもっている。「もののけ」の世界における博物学、それがこの時代の妖怪画の世界にほかならない』—(悪党的思考・妖怪と博物学)

 鳥山石燕の作品は四部作の中で進化を遂げ、より博物学への傾向が強くなる。
 この様な石燕の博物学への関心は、当時流行した寺島安良の『和漢三才図絵』や、中国渡来の『山海教』等の驚異博物書からの多大な影響が大きく見られる。『画図百鬼夜行・陰』では、像と名前が与えられたのみで、解説文がほとんど記されていない。しかし、巻を重ねるごとに溢れんばかりの解説文が与えられ、古今からの文献からの渉猟の痕跡が見て取れる。特に前述した『百物語評判』の怪異の集収録からの影響が強く見受けられる。
 ここから読み解けるのは、江戸の絵本作家としての石燕の才覚である。絵巻物から絵本化する工程で、絵巻物の特質である「物語性」を意図的に排除している。物語では行列の様相に関心の対象が置かれており、そこが重要性である。
 それに対し、絵本、あるいは博物学書の特質である一枚絵としての重要性である背景を明確に描き足すことにより、石燕は妖怪を浮かび上がらせ、現実に定着させることに成功している。
 鳥山石燕は新しい科学精神を以てして、今までは自然と意識の境界に生まれた曖昧模糊な存在を解体した上で、さらに個々に名前付と解説文の付属を行ったのだ。

 そして、四部作の最終巻に当たる『百器徒然草』は、まさに『百鬼夜行絵巻』に描かれていた連続した付喪神のみに焦点を当てた巻となっている。
 『百鬼夜行絵巻』を見たあとに夢のなかに出て来た妖怪たちを描いたと記しており、先行している三種の妖怪画集に較べると、妖怪そのものの題材として求める典拠にばらつきはなく、一貫した制作構成をとっている。
 例を上げれば、炎の燃え盛る釜の頭部で、両手に笹を持った「鳴釜(なりがま)」。
 目鼻を持った琵琶の頭部をし、着物を纏い杖を付いた「琵琶牧々(びわぼくぼく)」。
 龍型の胴を現し、琴に大きな目玉が二つ光る「琴古主(ことふるぬし)」。
 大きな乳鉢を被り、袖から縄を垂らし横顔を向いた「乳鉢坊(にゅうばちぼう)」。
 三眼を持ち、鬼の体つきをした蜻蛉になって空をとぶ如意「如意自在(にょいじざい)」。
 鍬を背負い、老人の顔付をし蓑の体に、草鞋の足を持つ「蓑草鞋(みのわらじ)」。
 更には、『百鬼夜行絵巻』の構図をそのまま模倣し、付喪神が其々「槍毛長(やりけちょう)」「虎隠良(こいんりょう)」「禅釜尚(ぜんふしょう)」と名付けられたものもある。

 これらが、鳥山石燕の行った無名の付喪神に名をつける行為の一例である。
 元々は絵巻物として連続した物語性の中で、それぞれが名前、朧気に解る器物の原型の名称を持たなかった異形の鬼たちは、解体と再構築の上で解説と名前、そして像が揃うことで初めて「妖怪」として成立したのである。
 これこそが妖怪の博物学化であり、石燕の偉業である。

 ここで疑問が生じる。なぜ石燕は付喪神を博物学化したのか。
 付喪神を主とした最終巻『百器徒然草』を読み解いていく上で、重要となるキーワードは「百器」と「夢」であると考える。

 『百器徒然草』の巻頭と巻末の妖怪は「宝船(たからぶね)」である。巻頭に一回、巻末に二回、計三回登場する。
 巻頭の「宝船」は、七福神の宝船の画である。解説はただ一言『ながき世とのねぶりの』とあるだけである。その解説の通り、船には穏やかな表情で、夢をみるように眠りついた付喪神達が乗り合わせている。
 巻末の「宝船」の一つ目は、七福神遊戯の画であり、狩野派の画家たちが好んで描いたものとされている。こちらも一言『みなめざめ』とだけある。
 そして最後の「宝船」は七福神に続き、霊獣が財宝を背負い再臨する画だ。また、これも一言『波のり船のおとのよきなか』とあるだけである。
 
 この三種類の宝船に囲まれた付喪神は「再生と反復」を思わせる。
 言い換えれば、宝船の上で微睡む、百年の時歩経て魂を持った付喪神たちは、七福神の船に乗り、静かなる波に耳を傾けながら、海上の先の異界へと旅立つ。
 そして七福神に導かれ、霊獣に背負われた財宝たちは、我々のもとに器物として現れ、百年の時を経て付喪神として、再び目覚め妖怪になる。これは直接的に、古代から続く妖怪の反復と再生の連続を意味しているのではないだろうか。
 また『百器徒然草』の妖怪の解説は凡て、『夢心に思ひぬ』『夢の中に思ひむ』『夢のうちに思ひぬ』といった言葉で締めくくられている。
 この表現は石燕の意図であることは間違いない。「夢」とはまさに船に乗り合わせ、波に揺られながら消えてゆく妖怪たちの心情を詠っている。つまり、二枚の「宝船」の図版に描かれた妖怪は、海上で現世を回顧しているのだ。
 やはり、ここにも器物の魂、というシャーマニズム的、あるいはアニミズム的思考が色濃く息遣いを続けている。

 そして、もう一つ着眼すべきは角書きの『百器徒然草』である。
 同作品群の前三部は凡て「百鬼」という言葉の角書きが含まれる。
 しかしこの四部だけは「百器」という文字りになっている。これは恐らく石燕の、あるいは江戸文化の「百」という質量的な数へのこだわり、執着と言い換えてもいいかもしれない。つまり、付喪神の語源である九十九神を、「百」という数字の中に収め、付喪神の多様化を表現することが石燕の目論見だったのであろう。
 この事から考察すると、やはり江戸の人々にとって「百」という数は、とても重要視されていたことが深く伺える。同時に、博物学という科学的、構造的思考の伝来の中においても、妖怪、言い換えれば「魂」の多様性を重んじる信仰が、脈々と流動しているように思えてならない。
 
 鳥山石燕とは謎多き絵師である。彼に関する人物像や経歴等のテクストは殆ど残されていない。その為、彼の意図を紐解いていくためには、『画図百鬼夜行』四部作の序文跋文、等のテクストから読み解いていくしかない。
 彼の残した言葉にはこの様なものがある。

『凡物の化するや、石の燕となり、筆の蟋蟀となるは、よく化すといふべし。ここに鳥山石燕なるもの、画にあそぶこと年あり。その筆亦よく化して、森羅万象なさずというものなし』—(『画図百鬼夜行』序文)

 「石燕」とは雅号であり、『石に飛ぶ理のないことから、その実をなくして名あるのみを石燕飛』という諺に基づいたとしている。
 つまり、石燕自身が好んで自らの姿を隠蔽していた痕跡が伺える。この事から、石燕は「名」だけであった怪異に姿を与え、妖怪画を描くために自らをマージナルな空間に住まわせ、その筆すらも怪異の一部分として捉え、森羅万象に潜む隠微な魅力を構築していく作業に没頭した人物であったのだろう。
 そうだとすれば、「鳥山石燕」という人物は、江戸期におけるまさにシャーマンだったのでないのだろうか。
 私にはそう思えて仕方がない。

 シャーマニズムとは、あらゆるもの、善悪をも享受しつつ、その本質を信じる信仰だと考えられる。
 また「付喪神」という妖怪のみる「夢」とは無意識である。そして、それこそが「本質」だとするならば、やはり妖怪を語る上で、古神道のみではなく、シャーマニズムも必要とされるのではないのだろうか。

 このような見地から、更に個別の宗教を深く掘り下げ、または他国との差異などを研究し、「シャーマニズム」、「妖怪」等について更に研究をしたいと考えている。

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