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論理的であるより、感情的であれ。

人間の歴史が始まってから、家庭問題・国家間の問題・貧困・コミュニティの断絶・いじめと差別・立場の弱い者からの搾取・宗教戦争などの諸問題は「繰り返し」「絶え間なく」生まれています。

これは、いくら科学が進歩しても豊かになったとしても、世界が人と人の繋がりでできている状況は変わらず、資本や貨幣に縛られた構造も変わらず、そして人間の生物的な特性が変わっていない、ということに起因しています。

<略>

だから「最近の青年には気概がなくなった」と老人たちは嘆き、「この頃の男は薄情になった」と娘たちは怨じますが、しかし私はむしろ現代の青年ほどお気の毒な存在は無いと言いたいのです。
「この頃の学生は親から金を送らせて、喫茶店やダンスホールにいるときの方が長い」という言葉も良く耳にします。

でも、学生が学業に一生懸命に身を入れて、品行方正の立派な秀才として大学の門を出たとしても、果たしてその中の何パーセントが就職し、自活することができるでしょう?またたとえ就職したとしても、5-60円のサラリーでどうやって妻を養っていけるでしょう?

これは1936年の読売新聞に掲載された文章です。84年前。
こんなことからも、人類が根本的には特に変わっていないことが伺えます。

同じように、その時代に対する警句や人々を啓蒙する文章にも、それほど大きな変化はありません。
僕が今までnoteに書いてきた事柄のほとんどは、少なくとも100年以上前にはすでに誰かが考えて言葉にしています。僕らを諫めたり、思考を正したり、ヒントを与えたりする文章は、いつの時代も変わらずにあるのです。

でも僕らが毎回全ての文章を真摯に受け止めて、自分の思考や価値観、行動を変えることはほとんどありません。

このことには、3つの背景があると考えています。

一つは遭遇率によるものです。みんなが必ず全ての警句に触れるかというと、そうではありません。人間に読まれない限り、影響を与えることはないのです。

もう一つは、僕らの理解度の問題です。それまでの経験や知識が異なるため、「文章を読んだら、万人が同じように解釈する」ということはありません。

最後は、「感情は動いたのか?」という問題です。
同じ文言を同じように理解したとしても、それがどれだけ刺さるか、感情が動いたかは、人によって異なります。

理解することと感情が動くことの間には、かなり大きな違いがあります。
「この違いはなぜ生まれるのか?」というのが、今回のメインテーマです。

「主に、引用・想起される具体例によって違いが生まれる」というのが僕の仮説です。どれだけ読んだ人に「実感」を持ってもらえるか、という話です。

ほとんどの人間は、抽象的な思考だけで感情を変えることはありません(日常的に、抽象化された世界に意識を飛ばしている方は違うとおもいますが)。
僕らが文章を読んで感情を動かされるのは、身体的・具体的な実感を得たときか、その時の感情にマッチしたときです。

例えば「日常的に歯を磨いた方が、虫歯になる確率が低くて良い」という警句は「今まさに歯が痛い人」に一番刺さります。これが身体的な実感です。

「世界には自分の意志でコントロールできることとできないことがあり、コントロールできないことはあきらめて、コントロールできることに注力した方が良い。」という警句は、例えば「ラクロスにおいて、天気が悪いことを嘆き、呪っても試合には勝てない。天気が悪い中で何が最善かを考えよう。」という文脈と一緒になることで、具体的な実感を持ちます。

このことについては、↓のnoteでかなり掘り下げて書いたので、是非読んでみて下さい。

このことは、例えば僕らのコミュニケーション方法に大きく影響します。
具体的には「私はどうしてもあなたにこれを伝えたいのだ」という気持ちを伝えることで、より大きく相手の感情を動かすことができます。

この映像を是非見てみて下さい。
僕が大好きな公共広告機構のCMです。


これが、より多くの人の心に刺さることを願って。
=====
最後に。
この文章を僕が伝えるよりも、今読んでいるあなたが伝えた方が、より刺さる人がいます。
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※最上部の画像は、Wikipediaから引用しています。

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