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想像力が人間最強の武器である

統計学が最強の学問である」的な、若干煽り気味のタイトルになってしまいました。

今回は、人間が持つ想像力についての話です。

人とチンパンジーの違いは、想像力だと言われています。想像力とは、一言で言うと「そこに無いものを知覚する能力」のことです。これが人間を人間たらしめています。
人間はこの力を使うことで、抽象的な思考を行い、時間の概念を捉え、計画を立て、他者の気持ちを推察することができるのです。

想像力には様々な使い方がありますが、ここでは「自分と他人の違いに対する想像力」について話そうと思います。
「自分と他人は違うんだ」と言葉で分かっていても、常にそのことに思いを巡らし行動するということは難しい。そんな中、どうやって想像力をうまく活用すると良いのでしょうか。


「自分が間違っているかもしれない」という想像力

僕らがなんらかの行動をしたり発言したりするときには、「ある程度の確信」が伴います。頭の中でいろいろなケースを考えて、「よし、どうやらこれが正しそうだ」という状態に至ったときに、僕らは行動します(もちろん、思い付きの条件反射のような行動もありますが、一旦おいておきます)。

そのときに、2つの態度があります。
1つ目は、「自分は100%正しく、間違っているはずがない」という態度。2つ目は、「万全を尽くしたが、何かを見落としていたり、間違った判断をしている可能性は排除できない」という態度です。

「人に何かを伝えるときは、自信があるように見えた方が信頼される」という考え方は確かにあります。しかしそのやり方は、本気で考え抜いて、間違っていたらすぐに間違いを受け入れるという覚悟を持った上で、自覚的に「自信があるように振る舞う」ものであるべきです。

そうでないのに、無自覚に「100%の自信」をもって振る舞うことは悪手です。理由は2つあります。
1つ目の理由は、間違っていたときに信頼を損ねる可能性が高いからです。
うまくいった場合は大丈夫です。
でも、失敗や間違いが続くと「あんなに自信たっぷりだったのに失敗した。彼は自信ありそうに見えても信用できない」という感情が生まれてしまい、長期的に考えれば得策ではありません。

2つ目の理由は、自信があるように振る舞うと、異なる意見やアドバイスを受けづらくなるからです。

「自分の助言は多分聞き入れられない」と感じてしまうと、多くの人は助言をすることを止めてしまいます。「助言をしたが検討すらされなかった」ということが繰り返された時はもちろんですが、「助言を聞き入れられる可能性が低そうだ」と感じるだけでも、人は行動を止めてしまいます。
報酬がないとモチベーションが湧かない、というのは人間の基本的な原理原則です。人間は報酬系の快感からは逃れられません。

そして、今後はこの2つの理由はさらに強化されるでしょう。

社会が多様化し複雑化する中で「自分一人の力だけで正解にたどり着けること」が減っていき、またそもそも正解があるケースが減っていくからです。

自身の考えは明確に持ちつつ、色々なものを柔軟に取り入れるという姿勢が、新しい考え方を手に入れたり、問題をかいけつすることにつながると思います。

ここは、日本人が特に苦手なところだと思います。
「意見」と「人格・価値」を切り離して議論することがなかなかできない。

「自分の正しさ」を主張することには意味はなく、「より正しいゴール」にたどり着くことだけに意味がある。そのための手段として、考えをぶつけ合うことが有効だから、それをやろう。

そんなことができるようになると、より生産的な人生を送れると思います。


「自分が考えていることは、伝わらないかも知れない」という想像力
僕ら人間は、「自分にとって当たり前のことは、他の人にとっても当たり前だ」と思ってしまう傾向があります。特に日本人は「みんなが一緒であること」を暗に要求する同調圧力の高い文化の中で育ってきた人が多いため、その傾向が強いと感じます。

当然ですが、僕ら人間はそれぞれ持っている知識も、考え方も、感じ方も、言葉の理解の仕方も違います。コミュニケーションの作法も異なります。

だから「感じたことをそのまま伝えたら、自分の意図した通りに伝わった」ということは奇跡に近く、まず起こりません。

相手が持っている知識や価値観、コミュニケーション手法を考慮しつつ、自分がなぜそう思ったのかを丁寧にひも解き、順を追って説明する。
こんなプロセスが、確実に相手にモノを伝えるときには必要になります。

このことを忘れると、「相手に自分の考えが伝わらない」ということに留まらず、いろんな問題が発生します。

幾つか例を挙げてみます。
・この考えが伝わらないということは、頭が悪いに違いないと感じたり、そもそも俺の話を聞く気がない失礼な奴だ、と思う。
・こういう訳の分からないことを言ってくるこいつはバカに違いないと感じたり、さらにはこいつは自分に害を与えるためにやっているんだ、と思う。

1つ1つは小さなボタンの掛け違いにすぎませんが、これが積み重なることで深刻な断絶が生まれてしまいます。例えば、日韓関係などの国家間の対立は、まさにこの典型だと思います。これが行き過ぎると「あいつらはそもそも邪悪なのだ」というところまで話が広がってしまうのです。

もちろん、経済的な利害関係や宗教の違いなど、どこまで行っても許容し合えない部分はあると思います。
でも、個人や集団のあいだで起きている問題のほとんどは「自分と他者が違うこと」を忘れてしまうことによって起きていると思います。

もう一つ、具体的な例を書いておきます。
あなたがFacebookなどのSNSで、とある記事に感銘を受け、それを自分の友人たちにも読んでもらいたいと思っているとします。

その時、特に何もコメントを書かずに、ただ単にその記事をシェアする人が多いです。
しかし、残念ながらそのシェアはあまり読まれません。
なぜならば、記事をシェアされたあなたの友人は「その記事が魅力的である」ということを知らないからです。それを知っているのは、あなただけです。
だから、あなたが「これはこういう理由で読むに値する記事だと思うからみんなにも読んで欲しい!」と伝えない限り、「読んでみようかな」という気は起きません。

もちろん、例えば「記事のタイトルが興味深い」という理由があったり、「その人がシェアする記事はいつも面白い」というような背景があれば、読まれるかもしれません。

でもそれはたまたま読まれただけです。もっとたくさんの人に読んでもらうためにあなたができることはまだまだ他にあります。

一つ前の話にもつながりますが、まずは自分の意思を伝える。その上で、相手の判断と行動に任せる。そんなちょっとした工夫で、コミュニケーションはずっと伝わりやすくなると思います。


もしかしたら自分もそうなっていたかも知れない」という想像力
ニュースで極悪非道な犯罪者を見たときに、どのように感じますか?

多くの人が「理解できない、信じられない」「恐ろしい」「あんなのは人間じゃない」という反応を示すでしょう。もしかしたらごく少数の人は「かわいそう」と感じるかも知れません。そして、感情の内容に関わらず、そのほとんどは「自分とは断絶した存在だ」という認識を持つでしょう。

ここには、その人の持つ想像力が密接に関わってきます。
それが「もしかしたら自分もそうなっていたかも知れない」という想像力です。

その人は実は生まれながらに邪悪なわけではないんじゃないのか?
なにか決定的なきっかけがあったんじゃないのか?
絶望につぐ絶望で心がおかしくなってしまったんじゃないのか?
自分はどの時点までさかのぼれば自分もそうなり得たのか?
自分は今までうまく行っていただけで、これからそうなる可能性があるんじゃないか?

きっかけは家庭環境かも知れない。
貧困かも知れない。
学校の担任かも知れない。
学校でのいじめかも知れない。
職場のストレスかも知れない。
その組み合わせかも知れない。

「その人がそうなってしまったのには必ず理由がある。」

そう信じて生きることは、確かに考えることが多く面倒です。分かりやすく切り離してしまった方が、きっと負担の少ない平穏な日々を送れるでしょう。

でも僕は、そう信じて生きた方が確実に人生を豊かにすると思うのです。

自分が極悪非道な犯罪者になり得た or なり得るかも知れないと考えることは、これから想像もできない体験をして今よりもずっと魅力的で輝いた人間になるかも知れない、と考えることの裏返しです。

それはどちらも、自分の可能性をオープンにしておくことです。

自分が悪い方にも良い方にも変化することができるという余地を持っておく。その上で、人生のハンドルを他人に渡さず、自分の意思で選択し、より良い方に導く。

そんなことができるようになると、これから先の人生は楽しくなるかも知れません。


冒頭にも書きましたが、想像力は人間だけに与えられた特別な能力です。
その機能を使わずに、条件反射的に生きてしまうことは、すごくもったいないな、と思ってしまいます。


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