2021.06.28 自己紹介

初めまして、スズキワタルと申します。

今回は自己紹介ということで、私について知っていただけたらと思います。
お時間に余裕のある方、ぜひお付き合いください。

まずは現状から。

現在は大手英会話スクールで英会話講師をしており、会話から資格試験対策まで幅広く担当しています。特に生徒様が資格試験で成果を出された時の喜びは代えがたいものがあり、日々楽しくお仕事をさせていただいています。

一方で、昨年からコーチングを学び本業にも時々活かしつつ、会社とは別でコーチングを提供することもしています。今後コーチとしてさらに本格的に行動していくために、色々な準備を進めている今日この頃です。


簡潔に伝えられたところで、続いて過去について語っていきたいと思います。

とはいえ、いざ書くとなるとどこから始めるのかって、なかなか難しいですね。。。


先に全体像をざっくりお伝えしますと、

・愛知県で生まれ、高校まで田舎で育つ
・流れで神戸市外国語大学へ入学
・英語が話せなかったので、休学してオーストラリアへワーホリ
・帰国後はすぐに就活し、5年で無事卒業。現在の会社へ
・2年目の夏に成果を上げて、頼み込んで年明けからキャリアアップ
・色々と頑張り方を間違えて、大失敗。半年後、体を壊す。
・転勤して0からやり直すチャンスを頂き、現在の配属になる(約1年半前)
・コロナ禍でコーチングを学ぶことを決意
・学び始めて1年が経った現在、本気でコーチングを仕事にしていくことを決意


こうしてみるとよくある話を寄せ集めたような私の人生、、、ですが、全体を俯瞰してみるといくつか特定の書きたいポイントが見つかったので、以下の7つに触れていけたらと思います。


➀高校受験を通じての成長@塾

②英語へのコンプレックス@大学

③ワーホリで出会った人々に受けた影響

④お願いして昇格させてもらったのに自滅

⑤環境の変化がもたらす変革

⑥なぜ、コーチング?

⑦今後の目標、理想の自分像


➀高校受験を通じての成長@塾


実は以前の記事に何度か書いたこともありますが、改めてもう一度。


今でこそかなりポジティブな部類に入るであろう私ですが、かつてはスーパーネガティブでした。


神経質で、心配性で、臆病で、中学初めての定期テスト期間の夜中に、ストレスで夜寝つけず蕁麻疹が出たり、夢でうなされ叫びながら走り回ったり(ちなみにこの話、当時の私は朝には覚えておらず親から聞きました。)と、ちょっと危ないレベルでした。。


定期テストにはその後慣れていくのですが、ネガティブ思考はそのままで高校受験のシーズンが近づいていき、中学2年の冬に塾に入ります。


夏期講習などに体験で参加したことはありましたが、毎週通う形で入ったのは後にも先にもここだけでした。


もうこの際名前も言ってしまいますが、「開拓塾」という塾です。


今もある塾ですが、先生方は皆イキイキと授業をします。

楽しく、わかりやすく、そして主体性を引き出すような、Interactiveな授業でした。


おそらく今の自分と同じくらいの年齢、20代半ば~後半の方が多かったのではないかなと思うのですが、お兄さん的存在で当時から憧れていたことを覚えています。


ちなみに就職活動をする際、ここに決めようと思って説明会や面接にも参加したのですが、それはまた別の機会に書きたいと思います。


少し話が逸れましたが、受験をするにあたって、過去問を解くというものがあります。


本番と同じ時間、同じ問題数で解くことで、試験慣れや傾向をつかむ目的で行われますが、一番大切なのはその復習。


その際に塾側からもらったのは、A3くらいのサイズのシートでした。


記入するのは「自分が何を間違えたか」「なぜ間違えたか」「次間違えないためにどうするか」という、シンプルな表でした。


今分析するとこれはセルフコーチングのようなものだと思うのですが、この時にこれを全力で行いました。先生にも褒めてもらえて、俄然張り切っていたのを覚えています。


成績はみるみるうちに伸び、志望校については余裕の合格となりました。

今でもこの学習法は自分のベースになっていて、大学受験、TOEIC®965点、英検®1級合格など、当初の自分では目標にすらしなかったところまで到達できたので、学習の真理ではないかなと思っています。


この時に、「今回が本番じゃなくて良かったー」という、間違えたことに対する不安をポジティブが上回る体験をしました。


成績だけでなく、自分が人として一皮むけた1年間だったと思います。


先日実家に帰った時に、久々に母親とこの話をしたら、「当時のあんたは自分に自信が無かったから、〈自分のことは別に信じられなくてもいい。けど自分が信じる人の言葉は絶対信じて、やり切りなさい〉と言い続けてたよ私は。」と、自慢げでした。(笑)


ちなみに母親は「命取られるわけじゃないから大丈夫」が当時の口癖で、今も底抜けのポジティブお化けです。ああ自分はこの人の息子なんだなぁと、最近強く思いました。


②英語へのコンプレックス@大学


高校はひたすら遊び散らかしていたものの、3年になると真剣でした。

4月時点で偏差値40くらいだったと思うのですが、件の母に「国公立以外うちはムリなんで!」と笑顔で言われ、特に疑うこともなく「わかった!」と愚直に勉強して無事公立の神戸市外国語大学に合格しました。今改めて振り返ると年間の学費26万て、だいぶバグってますよね。。


テストとしての英語はなぜか他よりはできる→嫌いではない→大学で他に勉強したいものもないので英語をやる、という理由で入ってしまった外大には、英語が話せる人がたくさんいました。ちなみに自分は英会話ほぼまったく経験なしで、話せませんでした。


英語で行われる授業もあったりして、先生が何を指示しているのかわからず、ゆっくりジェスチャー付きで言われてもCircle!(丸を付けろ!)すら聞き取れず、我ながらうわぁ。。となっていました。


普段一緒にふざけてた友人も、意外と優秀だったりしたこともあって、自分は本当、外大生と名乗って良いのかとかなりのコンプレックスを抱えていました。


なので正直、今でも人前で英語を話すことへのコンプレックス意識は消えません。レッスン中は気にしないのですが、それ以外の場ではなるべく自分の英語は聞かれたくないなーなんて思いながら、過ごしています。


まぁ外国人の同僚なんかと飲みに行ったら、結局タガが外れてめちゃくちゃ喋るんですけど。(笑)


今でこそ英検®1級取得してたりもするので「イヤイヤ、先生そんなことないでしょー」と言われることも多いのですが、そもそもこのコンプレックスがあるから何としてでも資格くらいは取ろうと思ってもぎ取ったものなので、今持っている資格の数は、そのコンプレックスの裏返しとも言えます。


ちなみに英検®に関しては、社会人になってから色々と戦略を練った結果ボーダーラインすれっすれの合格なので、本当の意味での1級レベルではないという自負があります。テクニックでかなりのかさましをしました。あさましいですが、毎月の資格手当が欲しくてやってしまいました。


③ワーホリで出会った人々に受けた影響


大学3年まで終えたタイミングで、4月からオーストラリアにワーホリに行きました。帰国は1月だったので、約9か月滞在していました。 


行った理由は英語が話せなくてまずいと思ったこと、同期で休学して海外へ行く人も多く、自分も自然とそのようになりました。休学期間中の学費は無料だったので、やらない理由もなかったんですよね。本当ありがたい。


ただ、行った初日から預けてたスーツケースがトランジットの中国で降りてしまうというハプニングに見舞われ、海外旅行経験も少なかったのでそもそも英語以前にどうしていいかわからず、当然英語も話せずで散々な滑り出しでした。。


当時の自分はパニックになりつつも、またTwitterにあげるネタができたとか思っていたので、この辺からポジティブが変な方向に働きだしていたんだと思います。(笑)


ホームステイに語学学校、アルバイトにファーム、特別なことはしていないが改めて思い返すとあぁ楽しかったんだなぁと。ちなみにこの時の資金は貯めていた奨学金と、あとは親に借りたものでした。改めて感謝。


3回程住む場所を変えていて、その中でたくさんの日本人に会いました。


自分のように大学を休学してきた人、日本で高校を卒業後そのまま来た子、30という年齢制限が終わる前にとギリギリで来た通称ギリホリの人、仕事を辞めて次の仕事を始める前に海外暮らしをと来ていた社会人などなど。。


自分はちょっとイキって「日本人と話さない」と決めていた時期があり、それで話せなかった人も多いのですが、そんな狭い人間関係の中でもとにかく自由だなと。人生何をしても良いんだということで、この時にどんなに辛いことがあったとしても自殺ではなく海外逃亡しようと決めました。


ちなみに今まで会った方の中で最高にロックな方が一人いるのでぜひ紹介させてください。


Shintaroさんという方で、当時確か30代後半=ワーホリはできない年齢。


Ayrという片田舎でファームをしている時期にお会いしたのですが、観光ビザで所持金確か1万5千円くらいで入国。ケアンズからヒッチハイクで移動していて、お金はバスキング(Shinさんは侍の衣装を着てギター弾き語り)で稼ぎ、日々野宿。


何がすごいって、それで世界1周をしていて、オーストラリアは1か国目だったそうです。そしてさらにすごいのは、当時からもう6年経ちますが、その旅はまだ終わっていないということ。。Instaの投稿を見た限り、現在は台湾にいるようです。。


この方は完全に別格ですが、もう何でもアリかと。(笑)


そんな風に、Plan-Zがあるなら、いくらでもフットワーク軽く挑戦して良いよね、と思えた時期でした。


今これを書くまですっかり忘れていましたが。。


④お願いして昇格させてもらったのに自滅


書いていて悲しくなるようなタイトルですね。(笑)


そんなワーホリから帰ってきて、就職活動を始めます。


業界を教育、そして自分が一般人より少しできるのは英語くらいしかないということで、めちゃくちゃ絞られた就活でした。


受けた会社は6社で、うち内定4社ですね。

内定をもらえなかったところは最終面接に遅刻してしまったN〇VAと、塾長と1対1で語り合った開拓塾の2つでした。


本筋から外れますが、自分は就活で「嘘をつかない」を信条に受けていたので、塾長との最終面接でも堂々と「第一希望は●●です!そちらに受かればそちらに行きます!」と断言したところ、塾長に「じゃあ今日何しに来たん?笑」と言われ、それに対しても堂々と「以前通っていましたが塾長とお話しする機会はなかったので、卒業生としてぜひ感謝を伝えたく来ました!」最後には「来てくれてありがとね!」と言われ、面談の結果についての連絡などはありませんでした。。社会人は忙しいですもの、当たり前ですね。(笑)


今考えると馬鹿正直すぎるし、そのために神戸から地元に戻ってたのもアホすぎますね。。


とはいえ、純粋に面接の出来で落とされたというのは1回もなかったので、かなり自信満々に、新卒1年目を迎えました。休みの日も英語や話し方などの勉強をしながら、とにかく早く何か結果を出して、出世したくて必死でした。


2年目の夏に、当時のマネージャーにこの目標を達成出来たら、昇格の推薦を書いてあげると言われ、周囲の協力が(なんなら大部分)あり何とか達成。どうにか推薦してもらえて、エリアの教師を管理する立場の方と面談をさせてもらった際のこと。


エ:正直めちゃくちゃ大変になると思うんだけど、、本当にできる?

私:はい!できます!!

エ:投げ出さない?

私:はい!もちろんです!

エ:本当に?

私:はい!もちろんです!!!

 エ:あんまり気が進まないんだけどなぁ。。じゃあ、頑張ってね。


ここまで止めてくれてたのですが。。


当時は自信過剰というか、勘違いマンで。とにかく新しいことに挑戦したい気持ちが強すぎていました。


自分は明らかに優秀タイプではなかった(今もですが)ので、情熱だけでやらせていただいた感じでした。


そこからさらに色々と挑戦こそするのですが、全体像が掴めていなかったり要領が悪かったり、優先順位のつけ方が間違っていたり、誰かにお願いするというのが下手だったり、そもそもビジネス脳みたいなものの甘さがあったり、、今思うと完全に勉強不足だったんですよね。それを情熱と量だけで乗り切ろうとしていました。


好きでやっていた仕事だったので、だんだんとそれが休みの日だったり、早めに行ったり、遅くまで残ったり、、間違った努力の方向になっていき、しまいには自分ができてないだけなのにそれについて愚痴っぽい脳になり、短気な脳になっていっていました。完全に自分が悪い、自滅です。本当お恥ずかしい限りですが。そういう時期ってありますよね。。?


体と心のバランスがだんだん崩れていき、7月のある月曜日にレッスンを終えると、40度の熱が出ていました。その日は台風で電車も動かずホテルに泊まることにしたのですが、体がしんどすぎて生まれて初めて救急車を呼びました。


その時に採血を4回ミスして私の腕に針ぶすぶす刺してヘラヘラしていた看護師を、私はまだ許していません。(笑)


もう真夜中だったのですが親が車で迎えに来てくれて、日頃家でイライラを態度に出してしまっていたことへの申し訳なさと、こんなときでも駆けつけてくれることへの感謝で泣きそうになりました。書いている今も、ちょっとウルっと来ています。今度帰ったら、またちゃんとこれまでの感謝を伝えないとですね。


夜中に運ばれた病院は本当に使い物にならず、検査しても原因がわからないと言われました。翌朝かかりつけ医に行っても原因がわからずで、おそらく疲労とストレスで体が弱っているところに細菌が入り込んで悪さしたんだろう、という結論でした。


確かその1週間はお休みをいただいて、翌週から復帰したと記憶しています。


8月に当時のエリア長の方に面談をしていただき、そこで「もう辞めます」と伝えましたが、その時は明らかに僕の物差しが陰っていて、ネガティブな側面しか見えなくなっていることを、きっと察してくれたのでしょう。


そこでは一旦受け止めてくださって、少し経った後に異動の話を頂きました。


昇格する前の立場に戻って、一旦0からやり直してみないかと言っていただけました。色々と噛みついたり勝手に自滅したあんなめちゃくちゃな社員だったら、今思えばむしろ見捨てられてもおかしくないのですが。。


チャンスを頂いたので、受けることにしました。


またこの時にその方から「サラタメさんのエッセンシャル思考っていう動画を観て」と言われたので観てみたら、少なからず自分に通ずるところがありめちゃくちゃ刺さりました。


それからビジネス系YouTubeを観ることがかなり増えたように思います。個人的にこの動画は自分を救ってくれた動画で、そこから私はサラタメさんをもう信者のように妄信しています。(笑)


⑤環境の変化がもたらす変革


正直、ここまでの話がこの自己紹介記事のサビのようなものでした。


ここまでは丁寧な描写?も交え書いてきましたが、ここからは軽やかに書いていきたいと思います。


異動の話を頂き、実際に勤務開始したのは2019年の11月でした。


借上げの社宅も見つけてくださったエリア長には、もう本当頭が上がりません。。。久々の一人暮らし、新しい環境で、心がとても軽くなったことを覚えています。


もちろんそこでも大変なことは色々とあったのですが、少なくとも以前のように間違った方向性の努力はしていませんでした。


数ヶ月経って今度はエリア長が推薦してくださり、2020年4月から再び元のポジションになりました。今度は自分が無理やりお願いした形ではなく、きちんと認めていただいた形で再出発をしました。


かといってやっぱり優秀ではないので、特別な成果はあげられていません。当時のエリア長への恩返しは、まだこれからです。


新しい環境になってからフットワークが軽くなり、RIZAPに2ヶ月通ったり、コーチングスクールを始めたり、自分の人生に前のめりに生きられている心地がします。


環境を変えるというのはよく言われますが、それを肌身で感じた経験でした。


今はそれからさらに1年が経ち、またさらに自分の人生を楽しんでいこうと画策中です。


⑥なぜ、コーチング?


自分がなぜコーチングにそこまで惹かれたのか、改めて考えてみました。


それが➀で書いた自分の原体験で、開拓塾でのものかなと思います。


就活時はそのエピソードから、「教えることを通じた人との関わり方」を見出しました。

今はもう一歩踏み込んだところに価値を感じていて、自立できたことにより自己肯定感が高まり、人生がより楽しくなりました。


コーチングでは、コーチはクライアントに何かを指示したり教えたりすることは基本的にありません。

質問をしたり、その時々で感じられたことなどを伝える関わり方を通して、クライアントと共にあるべき姿を目指すための道を模索します。


まさに並走という言葉が自分の中ではピッタリのイメージで、それにはクライアントの自立無くして成り立つことはありません。


誰かの目標を支援することが好きですが、そのために私がどれだけ貢献できたかよりも、その相手がどれだけ自ら考え行動できたかにより価値を置いている私です。


⑦今後の目標、理想の自分像


ということで長々と書いてきましたが、もうすぐ終わります。


今の私のミッションは、


英会話講師として:英語学習を通じて生徒様の人生をより豊かにする


コーチとして:対話を通じてクライアントの人生をより豊かにする


関わり方の軸が少し異なるだけで、目指すポイントは実は同じなんですよね。


また変わるかもしれませんが、少なくとも今は会社員としての英会話講師と、個人事業主としてのコーチングの両方を頑張っていきたいと思っています。


以上、大手英会話スクールで講師を続けながら、粛々コーチングを提供していく私スズキワタルがお送りしました!(サラタメさんのリズムで)


ではまた!

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