誰でも撮れるということ
誰でも撮れる写真ってなんだろう
ちょっと前の僕のツイートで思いのほか伸びたのがこちら
僕の気持ちとしては最後の方が大切な部分のつもりだったのだけど、前半に反応している人が多かったように思う。
「誰でも撮れるじゃん」
これは、写真をやっている人なら聞いたり見たりすることのあるセリフかなと思う。直接言われる人もいれば、自分の好きな人が撮った写真へのコメントであったりもするでしょう。そしてそれで傷ついたことがある人も大勢いるでしょう。
この「誰でも撮れるじゃん」という言葉には続きがあると思っている。
それは「だから別に凄くないよね」。
そして、その言葉に怒りを覚える人は自分や写真を大切にしている人だと思う。もっと自分らしい写真や、表現がしたいともがいている人はたくさんいると思う。そんな写真による自分の唯一の表現を求めたり、独自性を重んじたりする人に「お前は特別じゃない」と言っているようなものだ。というか普通に考えて大体の人はむかつくよな。
僕の場合はと言うと、いろんな人の凄い写真を見たりしているうちに、自分の写真は凄くないと思うようになった。凄くないと言われると、そうですね、としか言えなくなっている。誰でも撮れる。。。まあ、確かに?という感覚。
そして大切なのは、この凄くないは=「価値がない」とか「好きじゃない」ではないことだと思う。僕の写真は価値もあるしとても好きだ。
その場にいることが大切、ていうのは撮ってる側には一番納得のいく答えだろうけど、「誰でも〜」派の人たちにとっては関係ない。凄くないことを主張したいだけだから。なんなら、こんな凄くないのになんで評価高いんだ?と言うわからないものに対する恐怖心が生んだ言葉なのかも知れないと割と本気で思っている。理解不能なものはわからせるより理解不能なままにさせてあげる方がもっと怖くなると思う。全然思ってなさそうなのに、そう、あなたは何も間違ってないわて笑顔で言われる方が怖くない?
で、ここから一番言いたいことなんだけど、写真って元々こうコンセプトをもって撮ったり、独自性を大切に表現しようとしてる人は別として、そうじゃなくて写真を楽しんでいる人もいるよね。
それをさ、誰かに「誰でも撮れるじゃん」て言われて、無理して曲げなくてもいいんじゃないなーとか思うわけ。それはさ「誰でも派」に対抗しようとしてるだけだと思うの。それをやっちゃうと自分の中の「誰でも派」が育って、やがて他人の作品もそう言う目で見るようになって、あの時言われてめっちゃムカついた「誰でも派」に自分がなってしまうと思うんだ。なんだよ「誰でも派」って。
それがあなたを大切にするってことじゃないかなと思うんだよね。
誰でも撮れると言われても、自分でそう思ってもその写真には大きな価値があって、好きに値することは忘れないでいて欲しい。
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