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素敵な日常は素敵な写真によって作られるわけではない

こんな経験はないだろうか?
ていう時大体「あるに決まってる」て事を言うよね。あれなんか当てはまった時腹立つよね。

さて、話は変わってこんな経験はないだろうか?
目の前の光景をみて、「お、いいな」と思う。それを実際に撮ってみる。しかし写真を撮ってみて「なんか思ってたように写らないな」と言う経験。これは漏れ無く全人類が経験しているだろう。

大事なことは、だからといってその現実の光景の価値が下がった訳ではないということ。「いいな」と思う現実に「思ったように写らない」というとても理不尽なレッテルが貼られてしまっただけである。
しかしこれを何回も繰り返すと「写真としていい感じに写らなさそうに思える光景」が増えてしまう。

僕は以前、それを繰り返しているうちにみるみる調子に乗った。
景色を見ては「これは写真映えしない」「撮ってもいい感じにはならん」と、撮る前から現実をちゃんと見なくなった時期がある。これを僕は写真がうまくなったと勘違いした。撮る前から俺様はわかるんだと。
そして僕の中で撮るべき現実と、撮るに値しない現実ができあがり、その比率は徐々に偏り、やがて現実がつまらないものになっていった。写真にハマり出したあの時の日常のキラキラはどこいったん?僕が写真を軸に日常を見すぎたことによる、現実の過小評価が生んでしまった悲劇である。

あれ?おかしいな、写真てこんな感じだっけ?となってようやく気がつく、素敵な日常は素敵な写真によって作られるわけではないことを。

素敵な日常は素敵な写真によって作られるわけではない

ちょっといい言葉だったので大きい字にしてみました。ウケも良さそうだからタイトルにでもしようか。

さて、それからというもの、もうちょっとちゃんと現実を見るようになると、またあの頃の感覚が戻ってきた。日常にいいもわるいもなく、ただそこにあるだけ。撮ることは心の赴くままに、そして現実は現実として見つめることができれば、僕はきっと楽しくやっていけると思った。


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