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意図しないこと

写真というのは、予測と期待とちょっとした偶然でできている。
その絶妙なバランスこそ僕の好きな写真で、僕の思ういい写真だ。

スナップ写真に限らず、風景でもポートレートでもそうだと思っている。

いや、そこをコントロールしてこそのいい写真だという人もいるかもしれない。
でも僕は、仮に自分でコントロールできなくても、それでいいと思えたならむしろ大成功なんじゃないかとよく思う。
狙って撮りましたって言えたらかっこいいんだけど、ちょっとその辺りは不器用でいたい気持ちがある。

カメラを持ってうろついていると「何か臭うぞ」と思う時がある。今ここで構えていれば何かいいものが撮れるような、という予測に似たもの。予測はこうだったらいいのにという期待に変わり、その瞬間が来たり、来なかったり、またはそれ以上の何かが起こったりする。

僕は写真の意図しない部分が大好きだ。
「意図しない何か」を狙っていたらそれは「意図しない何か」なのか「狙った何か」なのかという疑問が生まれるけどどっちだろうね。

僕が今撮影している被写体の8割くらいは子どもだと思うけど、子どもは意図しにくい。
こちらがここにいて欲しいなと思ってもいないし、一度しかやらない謎のポーズをしたり。かと思えば無限に続きそうな奇行。まさに予測不能である。

僕は基本的な方針として、子どもに写真の為の指示はしない。これには写真以外の親としての気持ちもあるのだけど、それはまた別の機会に。ともかく、指示をしてはせっかくのナチュラルな予測不能が台無しだ。

僕は子どもが産まれる前から写真を撮っていたけど、子どもが産まれてからはスマホでセルフ写真を撮ることが増えた。というかそれまではほぼ自撮りなんかしなかった。僕もその偶然に巻き込まれたい気持ちがあるのかもしれない。


カメラを構えた時、撮りたいものは明確な癖に、子どもにはついついそれ以上の意図しない何かを期待してしまう。なんとも欲張りである。身近な存在だから子どもを例に出したけど、きっと他の被写体でもそうなんだろうと思う。

こうなりそう、こうなったらいいな、まさかこうなるとは。
予測と期待と偶然を楽しみたい。

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