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いけばなで理系論理思考を満たすための誌上お稽古@Hanako9月号。

いけばなは伝統芸術として感覚的なものだと思っていたけれど、想像していたよりも論理的で理系の僕にもしっくりきました」とHanako9月号誌面でのお稽古を終えて阿部亮平さんはおっしゃってくれました。

最低限の情報は押さえておこう、と事前に彼についてググっていると相応のインタビュー記事と大学院を卒業し、気象予報士の資格を持っていると知る。そしてインタビューの受け答えの傾向から、ロジカルに道筋立てて説明することが誌面での稽古においても吉だろうと覚える。いや日頃より、話題の寄り道はあれど筋道立てて言葉を浴びせるような具合で進めているので、何変わるわけでもありません。

気象といけばな。密接に関わっている分野です。お日様のありようは植物の生育に大いに影響を及ぼします。気候風土は植物のありよう、姿形を決定します。ともに扱う対象は自然、摂理。

"伝統芸術として感覚的なもの"。阿部さんが口にされたこうした感覚は、誰しもが持っているものです。ここのところこのトピックしか書いていないようにも思える。しかしどうしてみんながこう言った印象を持つに至ったんでしょうか。

花にかぎらず芸事は師匠が言葉少なに背中で語り、芸は盗んで身体にしみ込ませよ的な職人さんの世界にも通じるイメージがいまだ色濃くあるのかもしれません。道筋を外せは言葉なくピシャッ、と正される(しつけ中の愛玩動物がされるがごときですね)。こうして言葉を介さずに身体に染み込ませてゆく技術の積み重ねがいつしかセンスと特別視されるようになり、言葉を介さぬものはなきものとバックボーンたる下積みは忘れ去れた。いつしかセンスのみが一人歩きして、通りの向こうから合い対する人にとっては、肩で風を切る無頼の如く受け取られてしまったのではないかしら、なんて想像するのです。なんだかもったいない。

さて、理系と括られる分野の多くは論理的で現実的な学問として認識されることが多い。この世にある事象を再現性あるかたちで体系化しているわけだから、それを学ぶ分にはもっともだ。けれどもその実、先端にいる人たちが相手にしているものは、宇宙だとか細胞だとか分子だ原子だ人間だと未知なるものに挑み続けているわけで、はたから見ていると先の印象とは真逆の側面も多分に感じられる。膨大なデータを元に道筋を立てるわけだから決して夢想家とくくれるわけではないのだけれど、とにかく、この世に新しい視点をもたらさんとする姿勢はアートそのものなんじゃないかしら、なんて思ったりもする。

いけばなも、植物と自然の理を理解した上で、手にした花材ただそれを一期一会に収めていくわけでして、理系っぽい側面がない、とはいえない。現れた一杯を通して、自然に対する新たな視点、あるいは疑問を投げかけるという点においてはアートと言えるかもしれず。

お稽古ごととしてのいけばなは、というと雑な言い回しになってしまいますが、自分のお教室にくる生徒さんにはデザイナーやフォトグラファー、身体表現をする方々がいらっしゃいます。そして同じぐらい数字を扱うお仕事やSE、お医者様といったご職業の方々も多く通われていらっしゃいます。日頃無機質なものを相手にしている、あるいは命に向き合っている。それゆえに生命力に溢れた植物に触れたくなる、というのも感情のバランスを取る上で大切なことのようにも思えます。

最近は海外の方からサスティナビリティや持続可能社会のありよう、地球の温暖化についてその可能性を問われたり、いけばなの役割として何ができるかと質問されることも少なからずありまして。その都度、頭を捻っております。

阿部さんはSnow Manというグループに属する気象予報士さんですから、名前からも資格からも地球温暖化や持続可能社会なんて課題にすこぶる親和性の高い存在です。何よりもジャニーズのアイドルですから訴求力だっておありでしょう。コンサート会場の物販から演出方法その他、これまで自分がいけばなの切り口で問われてきたことが、彼らを媒介とすると解決できることが増える気がして震えました

あれ、ただの告知のつもりがなんでこうなった。(お終い)


ありがたくいただき、世界のどこかにタネを撒こうと思います。