脊髄小脳変性症とは?「脊髄小脳変性症の母と生きる。」
脊髄小脳変性症とは?
母が約26年闘っていた「脊髄小脳変性症」
「脊髄小脳変性症」と聴いてもどんな病気か知っている方は殆どいないでしょう。
2005年に放送されたドラマ「1リットルの涙」でご存じの方もいるかもしれません。
現在は全国で約3万人の方(1万人に1人)の方がこの病気と闘っていると言われています。
この病気は簡単に言うと、小脳が委縮していく病気です。小脳は運動の調節に関する部分で、運動調節の指示がだせなくなり、ふらついたり、思うように動作できなくなります。
ちなみにこの病気の治療法は確立されていません。
脊髄小脳変性症は遺伝子型で細かく分類されています。
孤発性
・オリーブ橋小脳萎縮症
・皮質性小脳萎縮症
常染色体優性遺伝性脊髄小脳変性症
・脊髄小脳失調症3型(SCA3)
・歯状核赤核・淡蒼球ルイ体萎縮症(DRPLA)
・脊髄小脳失調症1型(SCA1)
・脊髄小脳失調症2型(SCA2)
・脊髄小脳失調症7型(SCA7)
各々の型についての説明は割愛させていただきます。
発症年齢、進行速度、症状は、それぞれの型によって違いますし、個人差があります。
僕の母は脊髄小脳失調症3型(SCA3)でした。
SCA3の特徴は
常染色体優性遺伝を示すとあります。
簡単に言うと常染色体は、お父さんから22本、お母さんから22本、それぞれから1本ずつもらって、2本で1対になって合計22対になるんですが、お父さん、もしくはお母さんの常染色体のうち、キャリア(異常遺伝子)がある方が子どもに伝達されれば、その異常遺伝子が優性となり、発症するということになります。
つまり、この型の脊髄小脳変性症は50%の確率で遺伝するという事になります。
僕の母で言えば、僕の母の常染色体の1本はキャリアであり、キャリアの遺伝子を母から受け継いでいるのであれば、僕も遺伝していることになります。僕は今38歳です。まだ、症状が出ていないので分かりませんが遺伝してるか、してないかは分かりません。遺伝子検査をすれば分かるのでしょうが、分かった途端に、不安で普通の生活が送れなくなるのではないか?という恐怖で遺伝子検査はしないようにしています。
でも、僕は、それで良いと思っています。病気の可能性があるからこそ、今この健康な状態を当たり前と思わず、生きていける。他の方より、今を大事に生きてきましたし、いろんな事をチャレンジして生きてきました。
後に書きますが、病気のリスクは時にすごい力を持たせてくれると思います。
そして、亡くなるちょっと前の母の容態はどうだったかというと、
46歳位から発症して60歳位になるときには完全に車いす生活になっていました。
65歳位には脚も腕にも力が入らない状態でした。
また、構音障害で話すことは「うん」とか「しっこ」、「チョコ」などの短い単語が辛うじて話せる感じでした。
ジストニアも併発しており、首は常に右に傾斜していました。
歯に関して言えば、何回もの転倒で歯は上1本、下5本になってしまい、入れ歯をいれても咀嚼が上手くできなかったので、食事は全てミキサー食で、水気のあるものはとろみをつけて飲ませていました。
排泄に関しては自力での排尿ができなくなっていたので、夜寝るときはナイトバルーンを使って尿が袋の中に貯まるようにして、日中は4~5時間間隔で導尿カテーテルを使って導尿をしていました。
こういう状況だったので、僕と父は、日中デイサービスに行ってる時以外は、全ての生活全般を手分けしてやっていました。
食事、歯磨き、服の着替え、入浴、導尿、髪を結ったり、顔を拭いたり、化粧水をつけてあげたり、車いすでいろんな所に連れて行ったり。
通常、母は女性なので裸を見られたり、おしっこをするところを見られたりするのは恥ずかしかったのかもしれませんが、全てを僕と父に任せてくれていました。母からの信頼があったからこその介護だったと思います。
僕と父は人の1.5倍分生きている感じでした。家族を介護するという事、家族によっては、煩わしいと、人に任せる方もいるかもしれません。ですが、僕たち家族は、それを生き甲斐としてやっていたので、今それがなくなって、大きな喪失感を抱いています。
母にやってあげた事で母が喜んでくれていたのが、僕たちの喜びでした。
今、何もしてあげられなくなってしまったけど、唯一できること。
これから、母の事を書こうと思います。
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