私よ、「こんなことをして生きていて大丈夫」そうだよ。
やりたくないことを少しずつ手放しはじめて1年半が経つ。
当初周りを心配させて言わせた、
「そんな生活をしていたらいつか苦労することになるよ」とか
「もう独り身じゃないんだから子どもがかわいそうだよ」とか
「そんな好き勝手して生きていけないよ。生きるって大変なんだよ」とか
「苦しい中でたまに楽しいことがあるからみんな頑張れるんだよ。大人になって直ちゃんがしようとしているそれは無責任だし甘いよ」
といった言葉たちは、今ではあまり聞くことがなくなった。
こいつぁ何を言ってもダメだ、と思われたのかもしれないし、
もしかしたらまだ言ってくれているのに、私の心に強く残らなくなっただけかもしれない。
いずれにしても、
私の中にも確かにあった
「私、こんなことしていて大丈夫なのかな」
が消えたからだろう。
最初の頃にもらったそんな心配の声は、私の心の声でもあった。
他にも「いいね、楽しそうだね!」という声も確かにあったはずなのに、
「私、こんなことしていて大丈夫なのかな」
という私自身の心が、拾う声を選んで、その意味を勝手に強めて、自分を不安にさせていたんだと思う。
まだ1年半の暮らしの結果だけれど、今のところは
夫が主夫でも
私がやりたくないことはやらないと決めたフリーランスでも
子どもがいても
家族4人で毎月暮らす場所を変えてみても
「こんなことをして生きていて大丈夫」そうだ。
これからもこんな感覚で生きていきたいと思っているし、
生きていく自信がついてきている。
なんなら社会を好きになっている自分がいる。
日本社会への批判を聞くと、確かにもっと良くなったら嬉しいけれど、そんなに悪いところかなぁと思っていたりする。
なんとなくニュースとかネットとか頭のよさそうな人から入ってくる一部の情報や問題提起を聞いただけで自分まで社会を全部知った気になって、
何も動かないまま勝手に社会に絶望していたのは私だったんだと思う。
毎月0から稼いでみたり、地方に行ってみたり、流山で過ごしてみたりして思うのは、みんなとにかく温かく助けてくれる。
家族はもちろん、友人も仕事仲間も初めて会った人もおじいさんもおばあさんも大学生や子どもでさえも。
合わない人だってもちろんいるだろうけれど、そんなのは当たり前で。
少なくとも、私がニュースやネットの情報だけで想像していた「世間の人」はこんなイメージではなかった。
この一年半、特に心配された家計においては、もちろん豊かじゃないけれど、これも今に始まったことじゃないので特に焦ってはいない。
「こんな節約生活で乗り切っています!」みたいな特別な節約方法も特に見出していない。(月末はわちゃわちゃしてるけど)
私も夫も、この暮らしを始めて一番問題になるのはお金だと思っていた。
生活していかなくてはいけないのだから当たり前だ。
でも、何か見落としていないか?と不安になったり拍子抜けしたりするほどに1年半の間普通に何とかなったのだ。
もちろん今月ヤバいねってときは多々あったし、そんな時はピリピリしてケンカすることもあった。
しかし、1カ月単位じゃなく2カ月、3カ月単位で見ると何とかなっているのだ。
何とかなるんだということが時間と共に分かるにつれて、ピリピリする頻度は減ってきた。
今、この生活で一番重要なのは、きれいごとじゃなく
お金のやりくりではないという結論に至っている。
重要なのは自分と他者を信用することなんだと今は思っている。
他者には、自分の大切な家族も、今までの仲間も、最近知り合った人も、これから知り合うだろう人も入っている。
疑り深い私なので、
「人類皆ナカーマ!!\(´∀`)/」
みたいな気持ちでいるわけではない。
まだうまく言えないのだけれど、お金がなんとかなると分かってきたのは、自分と他者を信用し始めた時なのだ。
他者というか、社会でもあるかも知れない。
きっと自分を、自分や他者が助けてくれる。
自分の力と誰かの力で、何としてだって生きていける。
そう思えたあたりから、お金の問題が問題じゃなくなってきた。
ある意味で、他力本願なのだ。
倒れても誰か支えてくれるだろう。みたいな、そんな感じだ。
他力本願さが自分に芽生えたことは大きい。
これまでは自分のことさえどうやって信用していいか分からなかったし、
何より自分に裏切られることが一番傷つくものだから、そもそも信用したくなかったくらいだ。
それでも、この暮らしをするには自分を信じるしかなかった。
自分を信頼していない人間に、仕事なんて任せてもらえない。
自分をある程度信頼していないと、堂々と仕事に挑戦して稼ぐことも、生きていくこともできないのだ。
不思議なことに、最初は騙し騙しでも信じてあげるうちに、私が信頼できる私になった。
何となくでも自分を信じられるようになったら、「こんな私を、きっと誰かが支えてくれるだろう。支えてくれなかったらちょっと顔を赤くしながらササっと何事もなかったように起き上がるのみだな…」みたいな、よく分からない感情になってきたのだ。
「どう転んでも、きっと自分か誰かが私を助けてくれる」
そう思えたら、人生の楽しさはこっちのものな気がした。
もう一つ、この一年半の中でやめてよかったなと思うことがある。
それは、「やみくもなポジティブ思考」だ。
これまでは、嫌なことも
「この苦労もこれからの私にとって絶対必要な経験のはず。どこかで活きるはずだよね。(いや、ちょっとわかんないけど多分ね)」
とか
「この人も私のことを思ってこんな強いことを言ってくれているはず!何となくだけど一理あるもんね!(けっこう傷ついたけどきっとそうに決まってる…!いや、ちょっとわかんないけど多分ね。あれ、まって。そもそも一理ある?あるある。え、ある…!?)」
などと、
物事の良い面をなんとか見つけることや、私自身が「ポジ子」であらねば、ということにとらわれていた。
やりたいことがない者は、
せっかくいただいた特にやりたくはない誘いを意味なく断ったりしてはいけない!
人様からのアドバイスは何であろうと喜んで受け入れねばならない!
そんな風に思っていたんだと思う。(今思うと本当になぜなのか…)
しかし、そんな風に全力ポジティブでいても特に幸せではなかった。
やみくもなポジティブ思考で乗り越えた先には、必ず爆発する瞬間があったのだ。
私の場合は身近な家族に向けて爆発してしまうことが、年に数回ほどあった。
(もっとあったけど、数回がかわいらしいから数回にさせてもらおう)
やみくもなポジティブ思考でその時をやりすごしたってしょうがない。
全部を良く捉えようとした結果、
つまり私にとっては、それは周りから良く見られようとしたり、
丸く収めようとしたりした結果、
最終的には家族にあたり散らすことになったりして、そんな自分を嫌いになってしまっていた。
嫌なことをポジティブに受け止めようと必死で頑張った結果がそれでは悲しい。
酔っぱらって玄関先で倒れる私をいつも2階にずるずると運んでくれるのは誰か。
そこかしこで外してはどこかへ行ってしまった結婚指輪やイヤリングやリップクリームの蓋を全力で探してくれるのは誰か。
そんな優しい家族にあたるなど、あってはならない…!決して…!たまにしか…!ごめん…!
とにかく、
「この苦労は、どんな形でかは分からないし、いつかもわからないけれど、必ず報われる時がくるはずだからなんかキッツイけど頑張ろう!」
をやめたら、よかったよ、と言いたい。
どこかで理不尽さを感じている自分を無視しながらする努力や苦労を、
幸せになるための絶対条件だと錯覚しないようにしたい。
気持ちを整理するために書いているのだが、いつも通りごちゃごちゃしてきてしまった。
つまり、自分の中にあった
「やみくもなポジティブ」思考や
「好き勝手していたら罰が当たる」思考や
「人間は簡単には幸せになれない」みたいな呪いを捨てたら、
「私、こんなことしていても全然大丈夫そうだね」
に至り、ある程度のびのびと生きていけているよ。だから大丈夫、大丈夫。
ということを一年半前の自分に伝えたい。
今後自分がどうなっていくかは一切わからない。
絶対の自信なんてない。
それでも、どう転んでも、大事な人の話をゆっくり聞きながら、
最後はやはり、全ては心の決めたままに生きていきたいなと思った誕生月。
久しぶりに布施明のマイウェイでも聞きながら、それこそ久しぶりに夫と子どもに夕飯でも作ろうかなぁと思った夕方。
冷蔵庫を覗きに行ったらしなびたネギしか入ってなかったので、いつも通り夫に任せたい。
おわり。