13
3.11
毎年3.11に投稿していましたが、色々思うことがあり下書きのまま、投稿を躊躇っていました。投稿している今日は3月16日ですが、大学の後輩に背中を押されたので少し時間は経ってしまいましたが下書きのまま投稿したいと思います。読んでいただけると嬉しいです💐
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2024年3月11日の今日、東日本大震災発生から13年の時が経ちました。
震災当時9歳だった私も22歳となり、気づけば来週には大学卒業を迎えます。13年という月日はあっという間で、でも長くて。
大きなランドセルを背負った幼い私ももう「子供」だなんていってられない年になりました。春からは社会人です。私の周りの友達は結婚して、子供もいる人が増えました。いつしか周りの景色や状況も変化し、周囲からみたら私も一大人になったのかな、と思います(自分ではそんな気はしないです)。
高校1年生から3月11日には欠かさず「3.11を忘れないために、絶対どこかに震災への想いを記すんだ」と決めている私ですが、この日に想いを持って文章を書くのも7回目となりました。
3月に入り、そして11日が近づくにつれ、「今年ももうすぐ3.11か、13年目か」と思っていたものの、いざ今日になってエアコンを消し忘れた家に戻るための電車でのアナウンスで「あ、今日震災の日だ」とはっと思い出し、震災発生から意識していたはずの3月11日が、年々震災前と変わらないようななにげない3月11日になりそうで、あの時の思いを忘れてしまいそうで、そんな自分自身に悲しくなってしまいました。一被災者として、一発信者として講演する機会もあったはずなのに。「震災を2度と起こさないために、自分ごととして考えてもらいたい」と奮闘していた高校時代の私もかつてはいたはずなのに。
あれ、自分こそ少しずつ3.11が他人事になっていないか、、?(これが躊躇ってた一つの原因です)
一度発信したからといってずっと発信し続けなければならない責任はないかもしれないけれど、私の発信をきっかけに福島に行ったよ!と報告してくれた人、あの日を学びに自ら足を運んで生活してくれた人、考えるきっかけになったよと言ってくれた人、涙を流して読んでくれた人、話してくれた人。発信して100%届くことは不可能かもしれないけれど、私の言葉が、少しでも誰かの人生に影響を与えているということ、その事に責任は持たなければならない。私が色んなところで発してきた思いは紛れもなく私のありのままの想いで、それを受け止めて誰かのきっかけになっているということを忘れてはならない。だから私はこの日だけはどの場所に行っても書き続けたい。
先日、高校時代の友人と卒業旅行にいきました。そんな時に話していたのが、「私達の後輩の中には震災をそもそも体験していない子が震災を伝える側になる」ということでした。
私達の高校は震災で休校となった5つの高校の伝統を引き継ぎ震災後に新しくできた高校です。探究活動を通じ、震災・原発事故を二度と起こさないために私達ができることはなんなのか、様々なアイディアと行動をおこしながら復興にアプローチしていく、それが母校の特徴であり、高校の青春といえば探究活動、と言っていいほど私も探究活動に身を注ぎました。そんな私達も高校に入学したのは7年前、卒業して早4年。中高一貫校なので、入ってきた生徒達の中には、震災の年に生まれた人、もしくは震災後に生まれた子もいるでしょう。確実に原体験を語れる生徒は少なくなってきているのではないでしょうか。
というのも、私達の世代が「震災を語れる最後の世代」と言われていたように、もう自らの記憶と感情であの時なにがおこったか、どう感じたか、どう考えたかを語れる若者は少なくなっています。みんな学生を卒業し、大人になり、社会にでて、それぞれのやりたいこと、好きなことに向かってはしっていく。別に体験してなくてもいい。伝えようとしてくれる想いが、震災を伝承し続ける一歩になるから。でも私は経験を、想いを言葉にのせて伝えることはまた違った意味で大きな意味があると思っています。実際に体験したからこそ、その人にしか感じられない想いが誰かの心に突きさすことができると考えています。
私は、やっぱり何度振り返っても、どんなコミュニティにいようと今の自分があるのは、自分の人生を大きく変えたのは、良くも悪くも震災が核にあるんだな、と思います。2011.3.11から私の人生は止まっているのではなく、点で全て繋がっているように感じます。
そして【一人一人が自分らしく生きられる社会】を作るという人生の目的ができたのは、震災・原発事故がきっかけでした。
震災・原発事故を経験した「被災者」になった時から、当たり前だった生活を制限され、「放射能」などの心無い誹謗中傷を受けたこともあったけど、その違和感が原動力となり、高校時代の「地域交換留学」プロジェクトをきっかけにこの世の中に溢れる社会問題や地域問題との重なりに気づいたり議論することが楽しくて、元々プロジェクト発展に注力し学べる点で選んだ大学でも国内外問わず多くの社会問題に興味関心を持って行動する先生方や同級生達と出会えて、この4年間で1番時間を過ごしたサッカー部の仲間とも出会えて、色んな景色や経験を経て今の自分がいます。
4月からは、大学で更に色んな場所やジャンルに触れてきたけど、就職活動の軸は高校時代から変わらず【一人一人が自分らしく生きられる社会】に貢献できることが第一にあったので、多くの社会問題にアプローチしていて、かついずれ福島の復興関連のお仕事にも携われる(かもしれない)という点からデザイン制作会社への就職を決めました。
きっとこれからもずっとずっと私から震災・原発事故から切り取ることはできないと思います。でもそれでいいし、それがいいんです。震災を忘れたくないから。
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ここから毎年3.11に書いていたnoteの公開に躊躇っていた理由を少しお話します。
今年の元旦に能登半島地震がありました。ニュースでみる津波や避難所の様子が、あの時と重なり、けどその時に「何もできない」と感じてしまった自分がいて、毎年発信してても、一被災者として教訓を伝えても、いざ地震が発生した時に私になにができるんだろう?と無力さを感じてしまい、本当にこのまま発信していいのだろうか、と考え、また上記にもあるように少しずつ薄れているような自分もいるような気がして、立ち止まっていたのが理由です。けれどそんな時に以前の3.11のnoteも読んでくれていた大学の後輩が「今年はあげないんですか?」と言ってくれました。待っていたという言葉に色々考えるのではなく、やっぱりこの日の想いを私自身も振り返るために、改めて誓うために、書き続けようと決めました。
今でこそ誹謗中傷は減ったけれど、完全になくなったわけではないしまだまだ福島は復興過程で、福島の地で頑張る方々が多くいます。私の発信を通して、福島に対するネガティブなイメージが少しでも変わっていただけたら、興味を持ってもらえたら幸いです。
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