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斜視でいいんだよ

みなさん
こんにちは、わたころ運営のよしだです。

皆さんは普段から写真を撮ったりすか?
そこに写っているあなたはどんなあなたが見えますか?
そして、相手からどんなあなたに見えていますか?

私には「先天性白内障」という生まれつき水晶体が濁っている病気があります。
それにより、弱視に加えて斜視や眼振などの障害を抱えています。
そんな障害と私はかれこれ30年以上ともに居ます。

家族である妻とも10年以上一緒に居て、先天性白内障を持っている私は彼女にとっての日常の一部になっています。
※ 特に、惚気話とかではありません。悪しからず(笑)


ある日、とある用事があり証明写真を撮ることになった私は、スーツを着て斜視が右眼に出ないように意識して正面を見つめて、凛々しく撮影してもらいました。
現像された写真を妻へ見せると、
「なんでいつもと違うようにするの?変だよ」
という言葉を貰った。

私は、豆鉄砲を食らったハトの様に動揺しました。
私からすれば、フォーマルな写真なのだから、斜視で視線が正面を向いていないのは相手に失礼だと思っていたからです。
でも、彼女はそうではありませんでした。

「だってそれがいつものあなたでしょ?」と。


私にとっては、この障害によって相手に対して失礼だと感じていることでも、他者から見たらそうではないこともあります。
自己認識と他者認識は一緒ではない。そんなことは分かってはいるけど、心では分かってはいない。

今では、この視覚障害というものを少しでも活かしていこうと思えますが、今までに私は、視覚障害を抱えていたことで苦しい思いを沢山してきました。
障害を抱える当事者は、自身に対して劣等感やコンプレックスを抱えているかもしれません。
でも、他者はそうは見ていないかもしれない。それはなぜだろう?

考えとしては、単純に「わたし(よしだ)」として見て、そばに居てくれるからかもしれません。
障害のわたし、ではなくわたしとして見てくれる。これだけで他者が、私を「わたし」にしてくれているのかもしれません。

綺麗事かもしれませんが、救われるのです。


当然ながら、私が認識するわたしと他者が認識するわたしは一緒ではありません。
だからこそ、何かしらの生きづらさを抱える当事者は生きづらさを感じてしまうんだと思います。

簡単に思えることでも簡単ではないこと、
当事者も他者もお互いにレッテルのない「わたし」に気付ける、そんな社会が来て欲しい。そうしたら今よりも生きやすく感じることができるかもしれない。
そんな社会が来るのはいつになるだろう。


<よしだ>
わたころ運営メンバー
先天性白内障当事者えあり、自身の経験から子どもたちがなりたい自分になれる社会に近づけるように作業療法士として日々奮闘中。

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