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11月27日 一年祭(2010)

『良い事:下の弟の一年祭で、皆が集まってくれた。私の長男がいるおかげで、明るい雰囲気だったとおもう。長男がいなかったら、また少し違った状況だったとおもうんだ。時間は戻らない。今とこれからを大事に過ごしたい。
・下の弟の一年祭。
・神事のあいだ、長男は長男なりに頑張りました。泣くのを我慢していたそうです。
・昼食にいろいろ食べ過ぎて、夕食で食欲がないという状況になりました。』

2020/11/27
一年祭からちょうど10年です。
命日をむかえると、ちょうど11年です。

生まれることと、亡くなることは「対」になっている。
そんなことアタマでは、ちゃんと分かっているんだけど。

面と向かって考えることはほとんどないですね。
できるだけ健康で、長生きできたらいいな、くらいで。

親でもなく、親戚でもなく、私にいちばん近い存在の下の弟が亡くなったときに、「亡くなる」ということを目の前に突き付けられた気がしました。

だからといって、世界が違って見えるようになったわけでもないし。
葬儀前後のドタバタが過ぎれば、あっというまにあたりまえの日常へ。
(そりゃそうです、私にとってははじめての出来事だったけれど。
 生まれることと同じで亡くなることだって、とても自然なこと)

おもうのは、お迎えがくるのはできればうまれた順番どおりがいいです。

下の弟が、父よりも、母よりも、おばあちゃんよりも先に逝ってしまったのは、やっぱりすこし残念で寂しいことだとおもいました。

親としては、子どもたちの将来を案じて、できればさいごまで見届けたいとおもうのでしょうけれど、親が子どもをさいごまで見届けることができちゃ、駄目なんだとおもいました。

親は、こどもにさいごを見届けてもらえるように。
子は、親のさいごを見届けられるように。

あとは、たのみます、よろしくね。
あとは、たのまれました、おつかれさま。

そんな感じがいいです。
(じっさいは、なかなかそうはいかないのかもしれないけれど)

普段はこんなこと、これっぽっちも考えることはないのですけれど。
下の弟のお墓のまえで、祖霊舎(それいしゃ)のまえで、ときどきそんなことを、今でもふとおもったりします。
(いつか子どもたちに、おじさん(私の下の弟)が、なんではやく逝ってしまったのか聞かれることがあるのでしょうが…それはまた別のお話)

(きょうはおしまい)