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#35 今でも会いたいと思う先生①

もうすぐ還暦を迎える自分だが、当然小中学生の時代はあった。

しかし小学校の1年生から中学卒業まで、違うクラスの先生が良かったといつも思っていた。つまり自分の担任がほとんどすべて嫌いだった。特に小1.2小5.6は同じ男性教諭で、この人のことは小学校卒業以来一度も会ってはいないが、50年程経つ今でも大嫌いだ。大人になればもう少し人の見方が変わるだろうと思っていたが、結果的に変わらないのだなと思っている。

特に小5の担任発表のがあった時のショックは今でも覚えているくらいだ。その頃の我々の小学校では、2年ごとにしかクラス替えが無く小5.6は同じクラスで、担任もよほど事が無い限り変わらなかった。

言い訳にもなるが、この頃の出来事がそれから先の学校生活に大きく影響して、学校や教師や勉強があまり好きではない自分が出来上がったのだと、半分ぐらい思う。

とにかく、隣の芝生が青く見えて、隣のクラスにどうしたら変われるのか?そんなバカなことを真剣に考えていた記憶がある。いつも隣の担任は良い先生で自分の担任は、学校一ひどい先生だと思っていた。


中学校に入ると今まで2クラスだった小学校が8クラスまで増えたが、その中でも一番悪い教師が担任になったと、今でも思っている。

ただその中学でただ一人、40年経た今でもこの人の授業は受けてみたいと思う女の先生がいる。

その先生は当時、今の自分程の年齢で定年間近で、その中学校で古株の国語の先生だった。中学校では先生は教科別になるので、担任がすべて教える小学校と違ってこの人の授業は分かりやすいとか、この人の授業はさっぱり理解できないとかの相性により、教科の好き嫌い、成績の良し悪しが決まる気がする。(これも半分は言い訳だろうが)そして我がクラスの国語担当が、「Y先生」だった。この「Y先生」はこの中学で生徒ばかりか、教師さえも恐れている様子だった。


たぶんかなりのキャリアを持った人だったと思う。そして「Y先生」はいつも職員室ではなく、図書室に自分の城を構えていた。我々の教室は職員室から少し離れた所にあったので、チャイムが鳴っても教師が教室に来るまでに少し時間がかかるのだが、図書室は割と教室に近かったので、「Y先生」はほぼチャイムが鳴ると同時に教室に入ってきた。そしてその時に生徒が席についていなかったり騒いでいると、まさに鬼の形相で怒鳴った!

まだ当時は生徒に体罰をする男性教師が多かったが、女性の「Y先生」はそんな事はせず、ただその鬼のような顔つきと、厳しい言葉で我々に接していた。 しかしその迫力は他の教師を圧倒し、「勉強する気の無い者はおとなしく黙って座っているか、教室から出ていけ」と毅然とした態度で生徒に言い放っていた。

大正生まれであろう「Y先生」はもしかしたら、大東亜戦争当時にすでに教師であり、教え子を戦地に送った経験もあるのかもしれない。少なくとも戦争体験を社会人として経験していたはずだと思われる。ゆえに勉強に対する向き合い方というか、貴重さを生徒に伝える迫力は抜きんでていたのだろうと、今なら感じることが出来るだろうが、当時中学生になりたての私は、そんな背景など考えもせず、ただ他のクラスメートと同じように怖い「おばあちゃん」だとしか思ってはいなかった。

だが反面、授業はとてもわかりやすかった。「啓蟄」という言葉は「Y先生」に教えて貰った事を今でも覚えているし、武者小路実篤の事も「Y先生」が教えてくれた。

でも本当に顔が怖かった。表現はあまりよくないが、ブルドックがケンカする時に見せる顔そのものだった。

本当に怖い嫌な先生だと思っていた。
私が図書委員になってY先生の素顔を知るまでは。

つづく~


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