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ファウンド? or ヴァナキュラー?

はじめに:2つの言葉の現状

ヴァナキュラー写真はファウンドフォトという言葉の実質的な置き換えとして機能していて、置き換わっているのはコミュニケーションの問題だと思います

Twitterのスペース(音声ライブ配信)にて、大野台介(@daisukeohnosgm)さん

あくまで雑談の中でなされた直感的な指摘ではあるが、これはヴァナキュラー写真という言葉の流通の仕方の実際を鋭く捉えている。よりはっきり言ってしまえば、多くの人がただなんとなくヴァナキュラー写真という呼び方にシフトしているだけ、という現状を分かりやすく言い表している。「ヴァナキュラー写真」と「ファウンドフォト」。曖昧なままに使われている以上、両者の定義を実際の使用例から導き出すことは不可能だ。

だからといって、ファウンドフォトよりヴァナキュラー写真呼びのほうがそれっぽい感じがする……と周囲を窺いながら分かったフリをするのは、どうにもモヤモヤしてしまう。そんな状態から脱出するために、本稿では「Vernacular Photographies」という言葉の文脈について解説してみたい。


ヴァナキュラー とは

Vernaculer Photographiesという言葉が写真史・写真批評の世界で重要な意味を持ったのは、ジェフリー・バッチェンによる同名の評論「Vernacular Photographies」(2000)によるところが大きい。この中でバッチェンは、Vernacular Photographiesは家庭を夢中にさせ美術館やアカデミーではそう迎えられないものであるとする。(p.57) これは分かりやすく言い換えれば、いわゆる芸術と呼ばれる写真を除くすべての写真のことだ。バッチェン (2008) によれば、写真史は美術史をモデルとして「ヨーロッパとアメリカ合衆国からの、写真芸術家と傑作の正典によって」(p.149-150) 記述されたものが唯一無二の歴史として受け入れられていったが、実際には世の中で撮られたのほとんど全ての写真はそうした芸術写真とは無関係である。この事実を踏まえれば、写真芸術の歴史から無視されてきた写真は、むしろその凡庸さ(≒ 膨大さ)をもって写真というメディアの特質を表しているという理屈には一理ありそうだ。つまりVernacular Photographies(ヴァナキュラー写真)は、著名な写真家を内容物とした直線的な歴史記述(とその様式そのもの)に対する批判的な文脈を前提として、ありふれた写真を語るための言葉なのだ。

この一本の正史を拒否するとでもいうべき態度は、前川修が「ヴァナキュラー写真論の可能性」(2007)で指摘するようにVernacular Photographiesという言葉の構造にも現れている。建築の分野におけるvernacularという形容詞は ある地域に特有の普通の という意味を持つ。(この用例はバッチェンによる写真史への導入よりも先行する)
「ヴァナキュラー」という語を説明する際には「土着の」「その土地固有の」などの訳語がよく当てられるが、この表現は歴史【線】を持つ進んだ中央から奇妙な外部【点】を見物する、というやや植民地主義的な雰囲気を漂わせていて、大いに誤解を招くものだと思う。むしろ、その土地土地・文化ごとに複数の歴史【線】があり中央がある、それぞれの普通さがあるという感覚こそがvernacularの指すものなのだ。さらに、バッチェン (2008)がVernacular PhotographyではなくVernacular Photographiesとして複数の写真行為であると明示したことも(p.157) 普通がいくつもあるというこの感覚を強化するのに一役買っている。

これは英語の文法のお話なので、ひとつ受験の和英辞書と参考書を引っ張りだして確認してみよう。まずphotographyは写真撮影・撮影技術など、写真に関連する行為のことであり、モノやデータとして1枚2枚と数えられる写真(=Photograph)のことではない。行為であるphotographyは数えられない名詞、不可算名詞(抽象名詞)だ。不可算名詞は複数形にならない、というルールを覚えているだろうか?つまり基本的には複数形にならないPhotographyを、バッチェンはあえて複数形のPhotographiesとしている。これは抽象名詞の普通名詞化という現象だ。文法書にはこうある。「抽象名詞も抽象概念を具体化した事例や行為などを示す場合には、普通名詞と同じに扱われる。」(英文法解説―改訂三版―, 江川泰一郎, 金子書房,1991, p.5)つまりVernacular Photographiesというあえての複数系には、写真にまつわる行為(撮影・受容)というのは単一のものではなく、いろんなかたち(の写真)がある、という意味が込められているのだ。


2つの言葉の違い

では、この意味を念頭に置いて今回のもう一つのテーマである言葉「ファウンドフォト」に注目したとき、どのような見え方が生まれるだろうか。

ファウンドフォトが、美術の言葉:ファウンド・オブジェの明らかな借用・転用であることを踏まえれば、この言葉は捨てられた・忘れられた写真をアーティストやキュレーターが見出す、という営みを差すだろう。つまりファウンドフォトの実質は I found this photo. ―私がこの写真を見つけたのだ― という宣言にあるのであり、ここでは素人写真の山から革新的で優れた写真を見出す、美と写真史に精通し優れた審美眼を備えたキュレーターやアーティストが主体(I =私)としてふるまっている。この場合の新しい・優れた写真とは、当然芸術写真の価値判断・歴史にとってそうである、という意味であり、結果生み出されるのはVernacular Photographiesが批判しようとした直線的な・中央集権的な歴史を書く構造そのものだ。

冒頭で指摘したとおり、これらの語の定義については使用する人々の間でコンセンサスが取れていない。(前川修(2007)も同様にVernacularという語の定義の不確定を指摘している。)つまりここまでの私の取り組みは、バッチェンのVernacular Photographiesという語の認識に立脚して、それぞれの語について改めて定義をしてみるという勝手な試みにすぎない。実際のところは、匿名化された写真がeBay等で流通するのはだれかが発見findしたからだというのが実情であるし、インターネットで遭遇した画像を 拾い画 と呼び再利用する文化とファウンドフォトという語の奇妙な類似性を見ても、言葉が現在のかたちで流通するまでには複数の影響があるというのが真実だろう。ただどちらにせよ「ヴァナキュラー写真」と「ファウンドフォト」が単純に交換可能ではないことは明らかだ。2つの言葉が瞬間的に同じ対象を指していたとしても その背景と精神性は大きく異なりうる。

最後に、改めてVernacular Photographiesとはなにか。Vernacular Photographiesは、芸術写真とそれによって編まれた単一・直線的な写真史に含まれず、特別な数枚によって代表することもできない、さまざまな土地のそれぞれの文化においてありふれた写真と、写真にまつわる行為すべてのことである。


引用:
EACH WILD IDEA, Geoffrey Batchen, The MIT press, London, 2000
前川修,「ヴァナキュラー写真論の可能性」, 美学芸術学論集, 3:1-17, 2007
写真の理論, Geoffrey Batchen (2008), 「Snapshots: Art History and the Ethnographic Turn」,甲斐義明(訳),「スナップ写真 美術史と民族誌的転回」, 月曜社, 2017
英文法解説―改訂三版―, 江川泰一郎, 金子書房,1991

写真について Vol.5 に掲載予定

この文章は8月中旬にセブンイレブン ネットプリントで配布予定の「写真について Vol.5」の一部です。内容の紹介はこちら
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