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なんかもやっとしてたのよ

このnoteには映画「怪物」の内容についての記述は含まれませんが、文章内で引用している記事にはわずかながら関連記述があります。視聴予定のある方は、ご覧になってから読むことをおすすめします。

はじめに、この文章、というよりこれから私の書く文章すべて、は学術的なものではなく、また商用のものでもないので誤りを含む可能性が大いにあることを断らせてほしい。また、別に結論とか主張のないことも多いでしょう。

これは僕が現在まで僕個人としての人生を歩んできた中で得た経験に基づいて書かれるごく個人的な文章です。

そうならないような豊かな経験と配慮が僕の中に存在することを願ってやまないが、もし万が一この文章を見て傷ついたり不快に感じたりした人がいたらぜひそれを教えてほしい。言われたからといってすべてを手放しに受け入れて謝罪するというようなことはできないけれど、納得するまで考えて、誰も傷つけない和助を完成させる手立てにさせてほしいと思うので。

本題はここから。

映画「怪物」を観たいと思っていた頃、Twitterでこのnoteが流れてきた。すごく気になるタイトルだと思いすぐに読もうとしたけれど「怪物」のネタバレ注意喚起がなされていたので観てから読もうと決めた。

「怪物」については書きたいことがたくさんありすぎるのでここでは触れないが、視聴後はとにかくnoteで投稿をはじめようと思うくらいには心揺さぶられていて、そんな状態でこのnoteを読むこととなった。

ぜひ記事を読んでから僕のこの文章を読んでほしいと思うのだが、簡単にまとめると筆者の言説はこんな感じだった。

リトルマーメイドの配役が嫌だったがそれは他の作品でも同様、「原作と違う」ことに抵抗感があり、人種差別的な意図があるわけではないと考えていた。しかし、「怪物」視聴と自らの出産をきっかけに、各所で推し進められる過剰なポリコレ配慮と感じていたものは自分のためでなく未来の子ども達に当たり前に多様な世界を用意するためのものだったと気がついた。かつての意見を恥ずかしく思う。

自分の子のために、未来のたくさんの子どもたちのために、多様性を保障できる社会に向けて今の大人が頑張る。そう気付く人がいるということはとても重要なことで、それは即ち未来を明るくすることだ。同じ今を生きる大人として頼もしい。ありがたい。

しかし、僕の心にはわだかまりが残った。「原作と違う」ことを嫌がるのは悪なのか。何でもかんでも「配慮」であれば受け入れるべきなのか。そういう配慮が将来の多様性を本当に保障するのだろうか。


少し話はそれるが、僕は基本的に原作のある作品の映像化が嫌いだ。たいていの場合期待は裏切られるし、たまに良作があるとも聞くが、観たい作品が酷ければなんの意味もなさない。

僕の大好きな小説に、はやみねかおるさんの「都会のトムソーヤ」というシリーズがある。数年前、実写ドラマ・映画化されるということで期待をふくらませた。しかし実際に放送されたときには、よくあの素晴らしい原作を使ってこんなに面白みのない映像を作れたものだ!としか言いようのない作品となっていた。原作にはないストーリーの追加、原作の山場が一切描写されない、キャラクター設定の原型を一切とどめない改変・崩壊など枚挙に暇がない。面白いかどうかよりも、それは「都会のトムソーヤ」じゃない、という気持ちだった。原作を愛するものにとって、「原作と違う」ということはそれだけで致命的だ。

しかしながら、これについては権利を持つ人や組織が改変をよしとすれば受け入れるしかない。リトルマーメイドで言えば、ディズニーがGOサインを出したのなら、理由がどうであれ、それに納得がいこうがいくまいが視聴者に許されるのは観るか観ないかの選択だけだろう。だが、原作らしさを求めて期待すること、期待が叶わず落胆することは悪ではないはずだ。

では、そういう期待を裏切る形で、元々あったものをねじ曲げる形で生まれた「配慮のある作品」は本当に必要なのか。

僕はゲイだが、誰もが知る作品にセクシャルマイノリティが出てこないことに違和感や苦しさは全く感じない。物語が面白ければ良いし、本筋とは関係ないところに要素がちりばめられていてもそれが嬉しいとは感じない。

でも同時に、ゲイの生活を描いた作品があること、ありふれていることは希望を与えてくれるとも感じている。

かつて自分が子どもだった頃、ゲイに付きまとう不安や絶望というのは、周囲に知られてはいけないと思い込むこと、周囲の人間が誰もゲイの存在を口にしないこと、ときに否定的な言葉を聞くこと、そして幸せな生き方のロールモデルとなるものが現実、創作物含めてもその絶対数が少ないことによるものだったのではないかと思う。(僕はゲイ観念の化身ではないのであくまで個人の感覚だけれど。)

そう思えば、少しでも多くの創作物にゲイが登場することは大事なのかもしれない。けれど、それは必要な配慮として取り入れられるものではなく、ゲイという存在がありふれているものだと知っていて、それでも創作に必要だと感じることができる人が描くべきものだと思う。忖度によって組み込まれただけのものには希望を生むほどの力は宿らない。

幸い、世間は確実に変わってきている。本屋をのぞけばボーイズラブ作品のコーナーはだいたい存在しているし(それに対しても言いたいことはままあるが)、TVドラマや映画でも幸せに暮らすゲイカップルなどが登場する機会もぐんと増えた。その多くはもともとゲイの物語であって、既成の作品に加筆されたものではない。僕は登場人物やシナリオがどうであれ、原作のまま、初めに意図されたものを楽しみたいと思うのだ。(作者自身が考えを変えて既に出版された内容を書き直す場合も稀にありますが、それは大歓迎だ。その場合はむしろ変化をすべて追いかけたい。)


長くなったが話を戻そう。同じ論理がリトルマーメイドにも通用するだろう。

新たな「人魚姫がモチーフの話」ではなく、あくまで「リトルマーメイド」の実写映画化と銘打った時点で、リトルマーメイドファンはアニメーション映画のリトルマーメイドに近い実写化を期待するだろう。そこには差別的な視点など微塵もないはずだ。そこに生まれる落胆は映画そのものの出来ではなく、「原作と違う」という致命傷によるものだから。

それでもハリー・ベイリーをアリエル役にすることにディズニーがGOサインを出したのだから、あとは嫌ならば観なければよい、ということになる。

ただ、ゲイの話と同様、黒人がプリンセスの作品があるのは素晴らしいことだろう。今回のリトルマーメイドでも、自分と似た見た目のプリンセスの登場を喜ぶ子どもたちの動画はいくつか目にした。その喜びようを見れば、全員を手放しで喜ばせることは出来なくとも、成功した作品だし、必要だったと言えるのではないか。
(そもそも全員が喜ぶ作品なんかこれまでひとつでもあったの?)

とはいえやはり、原作と乖離するのは寂しい。リトルマーメイドの王子様は、そのアリエルだから好きになれたんじゃないのか、と。黒人なら好きにならなかったと言いたいのかと言われそうだけどそうじゃなくて、好きになった相手は見た目も性格も声も動き方も全部その人だから好きなのではないかと思っている。実写化とはいえ同じ作品。見た目が違えば「アンタ誰よ!!!」となるのは仕方ないのではないかな。

だから読み切れないくらい創られていってほしい。最初から彼らのものとして意図された物語が。姫でもいいし、勇者でもいい。科学者でも宇宙飛行士でも、魔法使いでも、なんでも。自分の物語だと分かるものが。共感できるものが。
それはやっぱり配慮から始まるのではなく、その物語に必要だと選び、愛し、尊ぶ気持ちを持つ人たちに作られていって欲しいと思う。

そういう物語がありふれて特別なことでなくなったとき、きっとプリンセスの人種で嬉し泣きをしない世界が生まれる。それを目指していきたいものだ。

気をつけたいのは、何を表現するかではなく誰かを不当に傷つけないように表現できているか、ということで、それがポリコレというものだろう。そう注意を払っていくことが、当たり前の多様性を保障してくれるはずだ。

思いがけず長く堅苦しい話になった気がするけれど、しばらく溜め込んでいたことをある程度言語化できたような気がする。
ということで、今回はこれまで。

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