見出し画像

どうしてプレゼンテーションにこだわるのか。

それは、プレゼンテーションがヒトやモノを変える
とても大きな力を持っているからです。

今日はとてもとても長い、思い出話です。
このテーマだとボクの答えはココにあるからです。
次回以降は実践的なことを書いていきます。
今回だけは、ゴメンナサイ。

ボクは1970年代前半、第2次ベビーブームのド真ん中で
大阪に生まれました。

「クラスで1番の人気者はおもろいヤツ」
「スポーツ万能なヤツもキラキラ見られる」
「両方を兼ね備えてるヤツも結構いる」
そんな大阪という街で、どちらも微塵も持っていない
「陰キャの運痴」
として、立場も居場所もないままひっそり育ちました。

勉強はそこそこできました。
先生からはかわいがっていただいた記憶があります。
ですが
その年頃、しかも大阪では勉強なんて二の次。
さらに陰キャときたもんで。
その勉強を教えて欲しいと言ってくる級友どころか
放課後に一緒に遊ぶ約束をする級友もいませんでした。

女子にとってはいないに等しい
もしくは正体が不明の気持ち悪い存在で
幼稚園と小学校を通しても
女子とコトバを交わしたのは合計15分あるかないか。

学校に行くのはちっとも楽しくなかった。
遠足バスの席も
クラスの席替えも
運動会のペア決めも
必ず残り物になって「えーどうするんアイツ」と扱われる
あの空気がたまらなくて、辛かった。
ましてや自分から手を挙げて選ぶなんてあり得ませんでした。

ただ
小さい頃からコトバが好きでした。

百科事典を読む
小説や古典を読む
国語の宿題に課される作文を書く
夏休みに自分が選んだ本を読んで感想文を書く
いつも乗る電車の駅員や車掌のアナウンスを完コピする
テレビドラマのセリフをその役者の物真似をつけて完コピする

そんなことを独りでやってる時間が楽しい子どもでした。

中学生になり、級友のほぼ全員が学習塾に通うようになりましたが
もう学校以外に疎外感を味わう場所なんか増やしたくなかったボクは
頑なに拒んで塾には行きませんでした。
だけど新しく科目に加わった英語についていけなくなるのが怖くて
家でひっそりラジオでNHK「基礎英語」を聴き始めました。

中学に入学して5ヶ月が経ち
夏休みが明けてすぐ担任の先生に呼び出されました。

「来月校内でやる英語暗誦大会にクラス代表で出なさい」

ちなみにその先生は、ボクのクラスの英語科担当でもありました。
たぶん「基礎英語」を毎日聴いていたことで
周りの級友より少し音読が上手だったのかも知れません。

それから3週間ほど、指定された教科書の1レッスン分を覚えて
放課後に先生の前で暗誦しては指導を受けるという日が続きました。
たしか
Mike, this is Kumi. She is my friend.
Kumi, this is Mike. He is from America.
Hi, Kumi!
Hi, Mike!
みたいなスキット(寸劇)でした。だから普通に読むだけではダメ。
会話らしい声色や間、話してる内容にふさわしい強調など
しっかりと演出をつけて。聴いてる人に状況が思い浮かぶように。
そんなアドバイスを受けました。

そうして3週間後に立った土曜日の午後わずか3分のステージで
ボクは人生初の衝撃的な体験をたくさんしました。

目の前に大勢の観衆がいる。
すべての目がボクだけを見ている。
ボクの話がマイクを通して大きな会場に響いている。
いつも自分が聴いている声とは少し違っている。
すべての耳がボクだけを聴いている。

とにかく状況が異常過ぎて、緊張とかの次元を超えていて
まるで宙に浮いて夢を見せられているようでした。

暗誦をすべて終えて Thank you. と締めくくって
ステージを降りる階段に向かおうとした瞬間

とても大きな拍手が湧き起こりました。
ステージから下りて控え席に向かう間も鳴り止まなくて
やっと落ち着いた後にはどよめきが残っていて
着席したボクはどうすれば良いのか分かりませんでしたが

全身がカーッと熱くなって沸騰しているようで
魂がブルブルと震えているようで
大声を上げて爆発してしまいそうで

フワちゃんならきっと全部漏らしてただろうなぁ(笑)

そして1時間後、「1年生の部 優勝」の賞状を手に
ボクは表彰式で再び観衆から大きな拍手をいただきました。

この世にボクが見てもらえる、聞いてもらえる世界があった。
ボクが拍手なんかもらえる時間があった。
生きてて良かった。
ボクにだって人と違う値打ちがあった。
それも級友にすら相手にされず孤独だと思っていた自分に
スピーチというコミュニケーションで人を動かす力があった。

そう思えたことがどれほどの救いだったか。
この出来事を境に、級友たちは「何か英語がすごい」切り口から
ボクに級友のひとりとして話しかけてくれるようになり
(面白かったのは、ある日やんちゃグループに廊下の端に呼び出され
カツアゲされるかと思ったら「何か英語でしゃべれ。」え!?
喋ったら「分からんわ!」とツッ込まれたけどそれだけで無事放免)
ボク自身も級友たちと触れ合う喜びや物を申す勇気を得て
心が通う親友にも出会ったことで、陰キャではなくなっていきました。

ボクという人間の奥底は、前後で何も変わっていないんです。
ただボクという人間の見せ方や見え方は変えられると知りました。
そしてそれがボクの学校生活を180度変えることになりました。

ちなみに1ヶ月後、学校の1年生代表として出場した市大会でも優勝し
ボクにとって毎年この大会に出ることが生き甲斐になりました。

原稿のストーリーを誰よりも印象深く聴衆に届けるためには
どんな顔をして、どんな視線で、どんな声色で、どんな振る舞いで
どんなスピードや緩急、間をもって話せば良いかを徹底的に考える。
正しい作戦を立て、それをステージ上で計画通りに実行できたら
大勢の観衆がまさに狙っていた通りに笑い、頷き、涙を流し
最後に無音の、そして高圧のどよめきが残ります。
中学生がスピーチの力で、与えられた数分間ではありますが
初めて出会った人々や場の空気をかっさらって支配できるのです。

学年が上がるにつれて地区大会、府大会へとコマは進み
後に高松宮杯(当時。現在は高円宮杯)という中学生英語弁論大会で
他学の帰国子女たちに完封レベルでボロッボロに負けましたが
彼らのスピーチを聴いている間は忘我の境地で引き込まれました。
終わった瞬間に「負けた…」と清々しい気持ちで拍手できました。
聴衆としても、スピーチの力の大きさを思い知りました。
こんな楽しいこと、ずっとやっていくしかないと心に決めました。

思い出話、おしまい。

これ以降、英語は高校や大学の受験において大きな武器になりました。
さらに大学ではESSに参加して英語スピーチを掘り下げたことで
その発信力や聴衆をアップスケールしたいという思いを持ち
「陽キャの巣」と思われているような某広告会社に就職しました。
そこで企画書の組み立てや広告コピーのライティングに
そして「プレゼンテーション」にスピーチ力が活かせることに気付き
自分の決め技としてポジションを作っていくことになるのですが
その根っこには中学生時代にあのステージで授かった

What(何か)やWho(誰か)は変わらなくても

How(どう受け入れられるか)は変えることができる

そして、突き詰めていけば

How が What や Who を変えることがある

How をコントロールするチカラが、人生を変えることがある

という原体験的な確信があります。
だからこそボクは、プレゼンテーションにこだわります。

そして、

そのチカラの存在とそれを使う喜びや興奮を
伝わらない悩みを抱えた人たちにぜひ知って欲しいのです。
一人ひとりが、自分を含めたヒトやモノ、アイデアが持つ真の価値を
相手の心に強く、優しく、美しく届けられるようになって
幸せな出会いや握手がもっと生まれる国になることを願っています。
そのためにボクは、プレゼンテーションを教えていきたいです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?