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日常の中にある、非日常を切り取りたい

noteを毎日更新すると決めてから、毎日何を書こうかなと考えるようになった。

あと2〜3週間で君が生まれる大きなお腹を抱えて、散歩をするほど元気なわけもなく(お腹はこれでもかと張るし、恥骨は痛いし、ペンギン歩きから熊のようなのそのそ歩きになった)、日々を家の中で安静に、ダラダラと、でも時に未来に対して真剣に過ごしている。

今日は、自分の写真と自分の人生を照らし合わせて、なんで私がプロフィール写真で、自然体で飾らない表情を撮影しているのか伝えたい。


写真との初めての出会い

私が初めて写真に触れたのは、写るんですだった。
ジッジッジッジッとフィルムを巻いて、パチョンという安っぽい音をさせて撮る。写真屋さんに持っていって現像された写真を「よく写ってる」「何も写ってない」「こんなの撮ったけ?」とアルバムに入れていく。

「あの時の写真、どんな風に写っているかな」と撮った時の記憶を呼び起こしながら、写真屋さんに取りに行く時の高揚感を今でも思い出す。

私にとって写真は本来、入学式や卒業式、学園祭なんかの、日常だけどちょっといつもと違うイベントの思い出を残すためのアイテムだった。

36枚撮影できるのに、いざというタイミングで撮影できないのは困るから、1枚を撮るのに、結構悩んだ。大切な友達との時間や、残しておきたいモノを選びながら撮っていた。
バレないようにこっそり撮るから、当時の好きな人は写真の中に小さく小さく写っていた。そんな写真も愛おしい。


日常のなかの、非日常が好きだった

いつもと違うイベントが終わると、決まって残りがでる。大切な瞬間以外に写真を撮るのが勿体無いと思いながら撮影するから、最終的にその時撮りきれなかったフィルムが残るのだ。
この、残ったフィルムで日常の中の残したい瞬間を切り取ることもあった。

日常の残したい瞬間は、友達と過ごす時間ばかりだったと思う。
教室で誰かが変顔すれば写真を撮ったし、私たちにしかわからない言葉を書いたホワイトボードを写真に残したこともあった。あとでクスッと笑ってしまう時間をよく切り取っていた。


当時の写真で思い出すのは、中学校の頃にとても仲の良かった友人と一緒に見た初日の出。
どこからなら初日の出が見えるだろうねと二人で話して、この街では少し背の高いショッピングモールの屋上で体を震わせながら待って撮ったあの1枚。

曇がたくさんかかっていて、正直朝日の綺麗さはイマイチだったけれど、あの日私たちがワクワクしながら待っていたあの場所も、冷たい空気もいまだに思い出せる。二人でいることは当たり前の日常だったし、初日の出を見にくのも必然なくらいに仲が良かった。それでも、二人だけで初日の出を見にいくというイベントはどこか非日常感があって、気持ちが躍った。


日常のなかの非日常=見慣れているのに美しく愛おしい瞬間

日常のなかの非日常とは結局何か。それは、見慣れているのに美しく愛おしいと思える瞬間。
常に一緒にいる人との関係だったり、毎日通る道の景色だったり、日々暮らす家の中だったり、同じものを見ているのに、ふと今この瞬間が美しくて愛おしいと思うことが必ずある。

いつも笑っている人のちょっと沈んだ顔も、普段完璧で隙がない人の余裕がない姿も、その方の人間らしい部分が垣間見えると「素敵だな」と思ってシャッターを切ってしまう。

プロフィール写真でも、見慣れている外向きの表情じゃなく、その奥にある「らしさ」が美しいなと思って撮影するから、自然体なところが撮れるのかもしれない。
ものすごい美しく写っているわけじゃない。でもなんか私らしくて好き。
そんな写真を目指したい。

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