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The shortest one ever

無我夢中だった。渦中、音も視界も触覚も全てが一瞬にして消えた。蓋し僕は死んだのだろう。そう思った。ただ弟が、僕の大切な1人の弟が遠くに行く気がして、追いつこうと、もう一度抱きしめてやりたいと、必死だった。

幼少期はライオンやチーターとかけっこをして遊んで過ごしていた少年、デンダラス=ラー=ボニニヤッチ君。13歳。ケニア出身。難病に罹った弟の治療費を稼ぐ為に世界陸上に出場する決意を決めた。

奇妙!サバンナに視察に来ていたスカウトマン(ルノワール・ドトール、当時35歳、後に怪物を育てた男として世にその名を轟かせた)に才能を見抜かれたボニニヤッチはニューヨークの弱小実業団グループPatas Monkeysの練習生として陸上を始めることとなる。

最新の陸上着、スパイクを使用し、タイムを測るも、芳しい記録は出ず。
彼がこの親しみがたい土地へ足を踏み入れて2ヶ月が経つ。風采上がらぬ自身の痴態に忸怩たる想いを募らせ、ボニニヤッチは内々苦心惨憺であった。しかし、時とは無惨そのものである。大会の日が来る。

己に落胆し、己の能力に疑心し、そうして彼は予選大会に出場した。

第一予選、ボニニヤッチ前半大きく出遅れるも必死の思いでくらい着き、3番目。冷や汗の展開である。ルノワールの握る拳に血の汗が沁みた。レースを終えてもその拳は固く閉ざされたままであった。

運命の予選第二戦、2位以上を獲らなければ本選への切符を手に入れることは叶わない。ルノワールの激が飛んだ。

『ボニ!全てを忘れろ!弟のことも!金のことも!剥き出しのお前を見せろ!』

ボニニヤッチの耳には届いていなかった。只彼は前だけを見ていた。見慣れない景色、幾つもの曲線、観客、都会の苦い空気、全てを感じた。

全てのアドバイスを聞き流し、全ての練習を忘れ、ボニニヤッチは素足でトラックに向かう。

『何をしているボニ!靴を拾え!失格になるぞ!』

警備に阻まれながらボニニヤッチの元へ向かおうとするルノワール、取り乱す警備員六名、飛沫する汗。ルノワールの手のひらは彼の割れた爪と血と汗と、それは煉獄で焼かれるカンダタを連想させた。

ボニニヤッチ、徐にトラックへと向かう。スタンディングスタート。

『Nakupenda, Kansa』

火薬の破裂音が場内に響き渡った。


定石とはかけ離れたフォーム、駆けるボニニヤッチ、突風の如く韋駄天!風を切り、彼の足に踏みしめられた地面には亀裂が走り、起こす爆風は両隣の走者を吹き飛ばし、鬼の形相で駆ける駆ける駆ける!

暫時、会場に静寂が訪れる。

『信じられねぇよ…』

ルノワールは全裸で立ち尽くしていた。警備との揉み合いで全て服を剥ぎ取られたのである。そうして踏切板をただ遠方の景色を眺めるようにしてぼんやりと見つめていた。

NEW WR 2.13

観客は皆唖然としていた。みんな1人違わずその数字を刹那日付と勘違いしていた。

『あの…せか…新…記録…どうし、どうやって』

ベテランアナウンサー、サイゼ=リ=アージャニーの声は震えていた。けれども彼の瞳は嬉々として目の前の超人を焼き付けるが如くボニニヤッチに向けられていた。

『想像したんだ。チーターに追われている僕自身が僕を追いかけている所をね。』

『は、はい!以上!人類最速の猫!ハリネズミさんでした!現場から放送席にお返してされ頂きました!!』

狼狽したアージャーニーの声が会場を超え空へと放たれた。

暑中、絵のような快晴の空である。

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