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スイミングスクールを辞めたかった

4歳からスイミングクールに通っていた。通いたいと言った覚えはなかったが姉も通っていたからなのか、気づいたら通っていた。

ものすごくスイミングスクールが嫌いだった。

毎週木曜日、家の近所まで迎えに来るバスに乗って15分ほど揺られるとスイミングスクールに着く。通っていたスイミングスクールは近所の幼稚園が使っているような小さいプールだったが、当時の自分には厳格で強固な城のように見えていた。絶対に落とすことはできない。

コーチは40代ぐらいのおじさんで所謂「気のいいおっちゃん」という感じ。明るく、枯れ気味の声で冗談を飛ばし子供たちを笑わせてくれる。何か悪いことをする奴にはしっかり叱る。
今おっちゃんに出会えれば好きになる自信があるのだが、当時の自分にとっておっちゃんは一城の主であり、敵だった。

今でも卑屈だが、幼い頃は今以上に卑屈だった。卑屈なうえに物事がよく分かっていないからすさまじいものがあった。幼稚園や小学校で写真を撮るときに「笑って」と言われても、何が面白くて笑うんだ、笑わせてみろよ、とまったく笑わなかった。
こんなのを相手に笑顔を絶やさなかったおっちゃんや、幼稚園の先生方に謝意を述べたい。


余談だが「写真とかなんで皆笑ってんだよ、と思ってたわ」と母に言ったところ、「皆笑ってるのに笑ってない自分特別!とか思ってたんだ笑」と言ってきた。
さすが俺を産んだ人だ。


ともかくそんな卑屈な奴が快活なおっちゃんのユーモアで口角を上げたいと思うことはもちろん一度もなく、仏頂面でビートバンを抱いていた。歯型エグいな、と思いながら。
もちろん自分からおっちゃんに話しかけるようなことはなく、おっちゃんも暗い子供だなあ、ぐらいに思っていてくれればよかったのだが、一つ問題があった。おっちゃんは姉を知っていたのだ。

4歳年上の姉は快活で人当たりが良く、おまけに水泳が得意だった。地域の大会で3位入賞ぐらいはしていた。おっちゃんは小学生が通うクラスも受けもっていたもんだからそんな姉のこともよく知っていた。快活な姉と、根暗な弟のコントラストが印象的だったのか、姉ちゃん元気か!とよく聞いてきた。
元気だろ。ここ通ってんだから。

スイミングスクールに通い始めてから一年が経った頃、ついに辞めたいと母親に伝えた。もちろん母親は理由を聞いてきた。何で?と。
ここが幼稚園児の可愛いところでそんなことを言われるなんて微塵も想定していなかった。スッとやめさせてもらえると思っていた。まずい。おっちゃんが嫌いとかはあんまり言っちゃいけなそう。どうしよう。ちっちゃい脳みそを熱くして絞り出した。

だるま浮きができないから。

だるま浮きというのは、体育座りのような体勢で足を抱え水に浮くという初歩的な技?だ。幼い頃の自分は一生懸命にだるま浮きの難しさ、それができない悔しさを伝えた。それを受けて母は先生に相談してみようか、と言った。よかった。これでようやく辞められる。そう喜んでいるのもつかの間。ある問題に気づく。


俺は、だるま浮きが、できる。


次の週、母親とスイミングスクールに行くとおっちゃんが入口で待っていた。母がおっちゃんにだるま浮きができないからやめたがっている、という即席過ぎる事情を説明すると、今日実際に見てから考えましょうか、と言った。
おい見るなよ。できちゃうぞ、だるま浮き。

母と別れ、いつものように指導を受ける。準備運動に始まり、水の中での簡単な運動、そしてついにだるま浮きをやる時間がきた。

通っているクラスは5,6人のクラスでみんなが一斉にだるま浮きをして、それを見たおっちゃんが一人一人アドバイスするような形だった。おっちゃんから見えないところに、とできるだけ遠くへ行きスタンバイ。よーい、はじめ!というおっちゃんの声に合わせて全員の尻が水面から顔を出す。

もちろん、自分の尻もきれいに水面から出た。

幼児とは本当に可愛いもので、できないことをあえてやらないということが発想にないのだ。できちゃってるよ!おい!どうすんだよ!と思いながら、律儀に膝を抱え、水面から尻を出した。やめ!の合図で全員が顔を上げおっちゃんからアドバイスを受ける。一人一人がアドバイスを受け、最後に自分の番がやってきた。

おい、上手にできてるじゃないか!

おっちゃんは黄色い歯を覗かせて笑っていた。


小学校中学年になると通う曜日が変わり、毎週火曜日にスイミングスクールに通うようになっていた。あの時だるま浮きができなければ火曜日にわざわざ濡れることなかったのに。小学校卒業のタイミングでスイミングスクールを辞めた姉がうらやましかった。

何年経とうが全然苦痛なレッスンを受けて帰りのバスに乗ると、運転手のおっさんが話しかけてきた。


お姉ちゃんは、元気か?



お前もかい。


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