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インクルーシブ教育のゆくすえ

前回の記事「障害は個性なのか?」で、相方が当事者の不利益が取り除かれいないのに、やたら「障害は個性だ」とうたっても、実際の不利益が覆い隠されてしまうのではないか、という非常に興味深い問題を提起してくれた。

たしかに、彼の言うように、インクルーシブ教育における「障害は個性だ」という理想化された概念により、ややもするとその障害を乗り越えるために必要なことを「みんなで」考えたり、気づかせることを難しくさせてしまう危険性をはらんでいるかもしれない。

そもそも、インクルーシブ教育とは何か。近年これほどまでにインクルーシブ教育が注目されるようになったのには、歴史的な理由がある。

背景となる思想は、1960年代頃に生まれた。「ノーマリゼーション」。北欧を中心に、障害児者の集団施設収容に対する反省から生まれた概念である。また、アメリカでは「メインストリーミング」といって、もともと少数民族に対する人種差別に対抗するための概念が生まれた。この2つの概念の具体的手段として考え出されたのが、「インテグレーション」である。

これは、さまざまな個性、能力、障害のある人々が同じ条件で生活できるようにしようとする考えであり、教育的な統合だけでなく、社会的統合もふくんでいる。ただし、教育においては通常の教育と特殊教育の2本立ての教育が存在することを前提にして考えるところに注意したい。考え自体はすばらしいが、問題は、統合教育を理想としているのにも関わらず、実際には健常者と障害者を分離してしまっていることだ。大きな矛盾である。(※この考え方は1971年学習指導要領における「交流教育」の明文化や、1979年日本の養護学校の義務化にも影響した。)

この反省から生まれたのが、「インクルーシブ教育」である。日本は2006年障害者権利条約に2007年署名し、2012年から「共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育」を開始した。具体的には学校教育における合理的配慮、障害のある子どもの「教育を受ける権利」の享受と行使である。

障害者権利条約において、合理的配慮を否定することは、障害を理由とする差別にふくまれていて、現在日本の学校における「特別支援教育」では障害のある児童生徒のひとりひとりの教育的ニーズを的確に把握し、柔軟に教育的支援を実施することが求められている。

「障害は個性か?」

障害を抱えているとはいっても、その度合いや現れ方はひとりひとり異なるのは周知のとおりだろう。さきの日本の「特別支援教育」においても児童生徒ひとりひとりの教育的ニーズに応えることが重要視されているのも、そのためだ。健常者(教師) 対 障害児(児童生徒)という固定化された関係ではなく、他でもないわたし と 他でもないあなた という親密かつ柔軟な関係を結んでいけるかが重要なのであり、「障害は個性か?」ということを議論してもあまり意味がないように思える。

個性という言葉の捉え方は人それぞれである上に、いい意味にもわるい意味にも、いかようにもその印象を変えられる言葉だからだ。

そうではなくて、学校教育を例にとれば、教師は普通学級に在籍している児童生徒のもつ障害によって生じる対人関係や学習などの「学校生活での困りごと」を明確に把握し、それを乗り越えるための合理的配慮を行えているかどうかが重要なのではないだろうか。事実、理念や目標を掲げても実際に行動しないのであれば、そんなものはどんなに素晴らしくてもゴミ同然なのである。

現状のインクルーシブ教育が当事者にとって十分なものではないことは確かだ。ただ、それには今までの分離教育が影響しているのも事実であることを見落としては決してならない。

近年教育現場や職場をはじめ、「発達障害」という言葉が広く認知されるようになった。これは、ものすごく意味のあることだと私は考えている。発達障害には、自閉症、学習障害(LD)、注意欠陥多動性障害(ADHD)などがあり、実は今まで障害ではなく、「個性」として受け取られることが多く、あまり気づかれてこなかった。それはつまり、もし自分自身で発達障害だとわかっても、周りが発達障害について認知せず、また対処法も分からないので放置されるということである。この状況って、あまりにひどくないか?

だからこそ私は、健常者も障害者も同じ空間で学ぶ、共に学ぶインクルーシブ教育の実現に向けた努力の取り組み、歩み寄りの流れを、とめてはならないと考える。と同時に、それは健常者、障害者双方の痛みを伴って実現されるべきだと考えている。