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早稲田卒ニート188日目〜トンカツの対象化不可能性〜

それにはたった一口で足りた。

寿司や天ぷらと同じく、出てきたまさしくその瞬間から味は徐々に落ち始める。冷めても美味しいものは確かにある。が、それは冷めた方が美味しいということを意味しない。やはり出来立てを頂くのが1番であるに違いない。出されてから食うまでの間に写真を何枚も何枚も撮っては「映え」を狙う奴がいるが、それは何もわかっちゃいない。そう弁えてはいるものの、いや弁えてはいるからこそ、1枚だけ許してくれと、誰に向かって得ているのかもわからない了承を心の中で懇願してのち、速やかに写真に収める。それからは、いつもなら定食は味噌汁を足掛かりにするところ、今日も箸で掻き混ぜはしたがそこまでで、汁を啜ることなくいきなりロースから攻めた。何かを意識はしたのではない。ただ箸が勝手にそっちへ行ったのである。

そして、一口噛んだ。これはただのトンカツではない。何がそうさせているのかはよくわからない。肉質の良さなのか、揚げ方なのか、衣なのか。少なからぬ疑問を抱えつつもそれに答えを出している暇などありはしない。トンカツ、白米、キャベツ、トンカツ、ビール、トンカツ、白米、漬け物……。今の私には、黙々とそれを繰り返す以外に何の余裕も与えられてはいない。そしてあっという間に平らげられた茶碗に少し恥じらいを覚えながらおかわりを頼み、再びそのループへと回帰する。私はトンカツに唆されるままに上がったペースを整えるべく、初めに等閑にしてしまった味噌汁に戻る。激熱である。そういえば提供される寸前まで片手鍋で煮沸されていたのだった。反動でやや後方に退くと同時に舌に軽い火傷を負った。しかしその時、確かな余韻を残しながら鼻腔を印象深く抜け去っていく強烈な香りがそこにあることに気づいた。あまりの熱さのせいで危うく感じ損なうところだったが、これは凄まじい旨味の鰹出汁に支えられた味噌汁に違いなかったのである。鰹出汁もまた、ただの鰹出汁ではなさそうだ。尾を引く鰹出汁のその深みに、つい目が見開かれた。結局、トンカツと味噌汁のいずれからスタートを切ったところで、私は驚きを食らわなければならない羽目になっていたのだ。先ほどまでの円環運動の中に組み込まず放置していた自分を些か反省しつつ、一気呵成に食い進める。

カウンター4席、テーブル2卓しかない狭い店だ。食い終わった後この場で感傷的にになっている暇は無い。それにこの体験をなるべく多くの人に味わってもらうためにも、こういう店には長居しないのがマナーである。皿に残ったキャベツの最後の一欠片を摘んですぐ箸を置き、会計を済ませて店を出た。戸を閉めて振り返り暖簾を上げてみると、やはり、列が出来ている。

ここまで少し忙しかった。入り口に灰皿が設けられていることは入店の際に確認していたので、煙草に火を着け、昼間の澄んだ空を見上げながら一服しつつ、ついさっきまでの充実した10数分間を回顧してみる。あのトンカツは一体何だったのか。しかしいくら考えてみようとしてもどうやら無駄らしい。一庶民の分析的理解などは無力でしかない。あの一口目で既に答えは出ていたのである。世の中には、対象化することの許されないトンカツというものがあるということだ。私は、「揚げる」という行為が持つ意味を初めて体感できた様に思う。

自ら食したものを対象化して云々する「グルメ」な方々がSNSには溢れている。ミシュラン掲載店だの食べログ百名店だのといった有名な店の高級な料理をたくさん召し上がっているだろうから、そういう方は味の比較ができる。それはそれで、ブルジョワにのみ許されたお目出度い経験である。しかし、夜遅くのスーパーで割引シールを貼られたトンカツを狙ってたまに買うことしかできない私の様な貧民にはそうはいかない。ただし、それゆえ、自分が今まさに噛み締めているそれ自体を、それがあるがままにただ納得するという「謙譲な」幸福が代わりに許されているのである。

駅からそう近くはない、人通りの少ない路地に面した店である。こういう店を知って行きつけにし、気の置けない友人にだけコッソリ教えるという趣味は、どうもやめられそうにない。

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