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早稲田卒ニート105日目〜橘から蜜柑へ、果たしてその先は〜

夏期講習で、初めて小学校6年生の授業を担当することに急遽決まった。それも私立コースということで、渋幕や開成、桜蔭などを志望する小学生もいるクラスである。そんな彼らの方が、私ごときよりよっぽど優秀であるに決まっている。何を教えられるのかわからないが、これは気を引き締めなければならない。そこでまずは講習のテキストの文章を全て読む。

加藤秀俊に草野心平、内田樹や森本哲郎など、なかなか面白い。そんな中で、

収入がふえるにしたがって人びとは何を買うかといえば、本来的にはあまり必要のないものを買うという形になるのです。

(伊藤光晴『君たちの生きる社会』)

金はあればあるだけ使う私のような人間に、グサリと刺さった。しかしその消費欲求には「広告」の力が働く。

ほんとうは生きるために必要のないものであっても、それが欲しくて欲しくてたまらないように思わせていく広告が力を発揮してくれるのです。

(同上)

「ステマ」なる行為が蔓延するくらいにまで、「広告」の威力が認められている世の中だ。芸能人の使っているものは、一般市民も真似して欲しくなることがある。憧れの人と同じものを持ちたくなる。テレビにはCM、電車の中にも中吊り広告、YouTubeにも、いつからか広告が付くのが当たり前になった。世の中はあちこち、とにかく広告で溢れかえっている。

そうなると、我々は物それ自体の真価を見抜く目など失うに決まっていて、物の価値はそこに書かれた価格と一致するようになる。が、当然ながら価格が物それ自体の価値を表すゆえんなど、どこにも無い。貨幣や紙幣など、本来は「幻想」なのである。そして何より、価値に対して「中立」のはずである。

しかし「広告」なる情報、記号が現実そのものを「神話化」しているすると、これはまさしく、ボードリヤールの批判した「現代消費社会」なのではないか。

みなさんの勉強机はどんな机ですか。いろんなものが、ごたごたついていたり、マンガの主人公などはついていまけんか。それも、机を買わせる手段なのです。

(同上)

小学生は、何やらアニメだか何だかのキャラクターが描かれた文房具を持っているし、かく言う私も、幼い頃は持ち物のほとんどに仮面ライダーが描かれていた。学習参考書でも、「有名予備校講師が書いた」というキャッチーなコピーがそれに当たるだろう。「東大生が使った参考書」のような宣伝もまた然りである。

ところがそうすると、ここで思い馳せねばなるまい。即ち、「無印良品」とは、ひょっとしてボードリヤール的「現代消費社会」に対するアンチテーゼだったのではないかということである。(ネットではあるが少し調べると、やはりどうやらそうらしい。)

それに「無印良品」のブランドロゴデザインは、あの原研哉であった。無印良品の背景には、哲学が潜んでいたのである。

こうした広告によって、欲望をつくりだす社会が進んでゆくと、どうなるでしょう。次から次に、新しい品物が売りだされ、宣伝、広告が行われる。これにつられてゆくと、ひとつ買っても、次の新しいものが欲しくなる。それを買うと、また広告にのせられ、新しく出たものが欲しくなる。

(同上)

ここでまた思い出さずにはいられないものがある。

古よりも、後世のまされること、よろづの物にも、事にも多し、其一つをいはむに、いにしへは、橘をならびなき物にしてめでつるを、近き世には、みかんといふ物ありて、此みかんにくらぶれば、橘は数にもあらずおされたり。その外かうじ、ゆ、くねんぼ、だいだいなどの、たぐひおほきなかに、蜜柑ぞ味ことにすぐれて、中にも橘によく似てこよなくまされる物なり。此一つにておしはかるべし。或は古にはなくて、今はある物もおほく、いにしへはわろくて、今のはよきたぐひ多し。これをもておもへば、今より後も又いかにあらむ。今に勝れる物おほく出で来べし。今の心にて思へば、古はよろづに事たらずあかぬ事おほかりけむ。今より後また、物の多くよきがいでこん世には、今をもしか思ふべけど、今の人、事たらずとおぼえぬが如し。

(本居宣長『玉勝間』)

宣長が、既に言っていたのである。蜜柑という、橘よりも大きくて味も良いものが出てきてしまった以上、橘ではもう飽き足りない。そして、この先さらに良いものが現れるかも知れないと期待する。パソコンでもiPhoneでも同じことだ。人間の欲望は、決して拡大再生産を免れない。さて、肥大し続けるその欲望は一体どこへ向かうのか。今度は、ルソーが示唆を与えくれるような気がしている。

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