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早稲田卒ニート159日目〜「無我」=「コギト・エルゴ・スム」〜

それなりに口数が多くてよく笑うもんだから、1つ年上の先輩から、「友達多いでしょう」と言われた。そんなはずがない。友達など極めて限定的で、僅か数名である。元来そうではなかったが、人生に本気で悩み出した高校2,3年生くらいから卑屈になり自閉し始め、その頃から他者への信頼を欠くようになった。もしもこんな見た目じゃなかったら、こんなに卑屈になんかならずに済んだのに。

大学でも友達がほとんどいなかったのでバーに通った。いつも1人。写真のバーも、新宿三丁目のバーである。夜中の3時頃だったか、閉店間際であったが1人で入り、先客に常連さんが1名。マスターを介して少し会話になり、「今いくつ?」と聞かれたので「20歳です」と答えると、「若い人はあまりバーに来ないから、こうして若い人が来てくれると嬉しいよ」と言ってくださった。

その辺のしょうもない大学生連中が群れを作り居酒屋でガヤガヤ騒いでいる様子を軽蔑し、その一方で、孤独にバーで学んでいる自分を、学生の頃は誇らしく思っていた。尤も何を学んでいるのかは明確に理解してはいなかったが、それでも、過ごす時間の意味が違うということだけは、私の様な未熟な大学生にもハッキリとわかっていた。バーの無い人生など、到底考えられない。バーには人生を賭ける価値がある。その確信があった。

ただしそういうことばかりやっていると、だんだんと周りと馴染むことが困難になってくる。そうして私はついぞ、大学生活を通して、いわゆる「飲み会」というヤツに参加したことが1度もないままであった。しなくてよかったと今でも思う。

と、都合上そういうことにしている。が、普段は努めて口外しないことにしているが、正直に申すならば、私は友が欲しい。それは決して、友達がいっぱい欲しいということでも、友達が少ないことを引け目に思うのでもない。それはあまりにくだらない。そうではなく、ただ、信頼に足る友が1人でも傍らに伴って居てくれることを心から願うのである。それが恐らく救済であるからである。

今身近に友がいないとしても、過去を想起すると様々な人を思い返す。その人たちは、私の人格に多かれ少なかれ影響を及ぼしている。それのみならず、とても思い出し切れやしない無数の人々だって、確かに私を形成する存在の一部であるに違いない。思い出せない以上、それが私を作っているという自覚は私には無い。が、意識というのは、人間の持つ無意識という巨大な領域に比べれば、所詮は氷山の一角に過ぎない。自覚など無かろうと、人間の全体性をどこかで揺さぶっているのである。また、バーという存在は、そしてそこで出会ったたくさんの人たちは、今の私の相当な部分を作り上げている。酒を飲みたいと思ってバーに行ったことは、たったの1度もありはしない。ただ、言うなればそこでは「自己滅却」が求められるという点で、バーとは自己形成のためのかけがえのない空間としてある。

どう考えても、「私」という存在はあまりに多くの「私以外」によって作られている。「私以外」という色が、「私」という色の領域の中にどんどん染み込んでくる。「私」の存在の根拠は、「私以外」の存在によって支えられている。しかしそれは、私の存在が脅かされることを意味しない。もし私の存在を徹底して信じていなければ、私の存在を疑うこともできないからである。

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