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早稲田卒ニート42日目〜「魂は歳を取らない」について〜

錦鯉がM-1グランプリで優勝した後、ワイドナショーに出演した時のことである。

たとえ肉体は衰えようとも「魂は歳を取らない」、これは長谷川さんにとって、未だ夢敗れるわけにはいかぬ老年の背中を叩いてくれる鼓舞としてのメッセージであっただろう。

ここで長谷川さんの引用した松本人志の元の言葉使いが「魂」であることにも興味が引かれはする。「心」でも「気持ち」でも「精神」でも、いずれでもない。尤も、松本人志が如何なる動機で「魂」という言葉を選択したのか、興味こそあれ私には知る由も無い。

取り敢えず、ここでの「魂」は、「年を取る・取らない」と結ばれる以上、「精神」と置き換えて、「精神年齢」の問題へと考えを転じてみてもいいだろう。



実年齢と違って精神年齢は、1年ごとに1つずつ加齢するわけではないので計算ができない。20歳の人が精神的にも20歳であるとは限らない。同じ学校の同じ学年の同級生が皆、同じ精神年齢であるわけでもない。また、成長したかと思いきや、その成長も不可逆的に進行するわけではない。状況次第で一進一退、精神的な前進と後退を繰り返しつつ生きることもある。

精神年齢は測定できない。人間の精神は、近代科学の歴史においても巨大な難問としてあった。科学は対象を分析する。が、そもそも計量できなければ分析もできない。無論、人間の精神は計量できない。僕らがこれまでに抱えてきた、そして今なお抱え続けている喜びも悲しみも寂しさも、それに怒りや憎しみだって、いろいろなものが複雑にないまぜになった僕らの精神を科学で計れるものか。

「幸福度調査」や「幸福度ランキング」などと、幸福に関する統計がこの世界には存在するが、私は極めて頓珍漢なことと思う。

精神年齢について、成長が不可逆的でなく一進一退のこともあると書いたが、「魂は歳を取らない」という言葉を恐ろしく解釈するならば、そもそも精神年齢は成長するとは限らないということでもあろう。老化が進行しようが精神はろくに成長も成熟もしない、そんな大人はいくらでもいる。なぜなら、「魂は歳を取らない」からである。ネットを見れば、そんな大人に出会うのはあまりに容易なことだ。やや歪曲的な解釈であるとしても、「魂は歳を取らない」という言葉は、未だ精神の成長を果たし得ぬ未熟な大人の無様さに対する暗喩としの機能もなし得るだろう。


精神年齢は目視できない。が、その目に見えぬ精神なり知性なり教養なり、それらの釣り合いによってしか本当に有意な人間関係は構築されないと私は思っている。これは私が勝手にそう思っているだけのことだ。が、そう思い込まないとやっていられないのである。この思い込みを融解するつもりなど一切無いほど頑ななまでの思い込みである。

精神的に育つことは、極めて難しいことと思う。そこで教育の必要性が生まれてくるのは、至極自然なことである。そして、教育がやがて到達せねばならない地点の一つは、自己による自己の教育である。試験や受験が終われば直ちに勉強をやめる様な人は、その自己教育が自分でできないという点において、自立を欠いた精神年齢の未熟な者である。茨木のり子の「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」ではないが、自分の精神を自分の教育によって円熟させるだけの努力が人間には求められるのだと思う。それができない人は、確かに、「ばかものよ」と言われても仕方ないだろう。

やはりある意味では「魂は歳を取らない」のかもしれない。それが激励となることもある。が、またある意味では、放っておいたら歳を取ってくれない魂を向上させ続けること、即ち精神年齢を高め続けること。余計な理屈は抜きにして、とにかくそれが大事なことだ。気を付けないと精神なんてものは、いとも容易く後退し荒廃していってしまう。しかし精神は目に見えないから、その荒廃が今どこまで進んでいるのかさえわからなくなる。だから、自分で自分の精神を「守れ」なのである。ただし私は「ばかものよ」と言うのは我慢する。その代わりに、「魂には歳を取らせよ」とだけは言明させてもらいたい。


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