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早稲田卒ニート28日目〜再び参らん、面接じゃ!〜

今日は牛タン屋のアルバイト面接へ行く。今回の手応えはというと……、まったくの五分五分である。

「なるべく近日中に連絡します」とのことであったが、さてどうなるやら。仮に採用いただいたとしても、あまり長時間の労働はできないらしいので、別のバイトもまた応募しなくてはならない。

しかし、私の手書きによる達筆履歴書を武器にアピールできたようだ。が、その一方で、「趣味とかはあるんですか」という問いに、「いろいろあります。競馬とか。」と素直に答えてしまった。ついでに言い忘れたが、今日も下駄を履いて行ってしまった。

さて、競馬と下駄、この2点の不利を凌駕するだけの何かをお相手の方に感じていただけただろうか。



「字は人格」という言葉を昔どこかで聞いた覚えがあるが、私はそれに心から意を同じくする。

もう90歳近い祖母が15歳くらいの頃に書かれたと思われるノートを発見した。学校を卒業する時の、同級生や先生らからの寄せ書きであった。中をめくって何よりも真っ先に突き付けられたのは、その字体である。とても10代の少年少女が書くとは信じられない字体であった。今の若者でこんな字体の人は見たことがない。それに、ノートの中に書かれた寄せ書きは、ほとんど例外なく精神年齢が極めて高い字体ばかりなのである。内容も、相手の幸福や人生の前途洋洋たることを願い、それを思想的な言葉使いで表現して書かれてあるのである。

中学生3年生の作文だって、こんなに大人らしい言葉使いは見たことはなかった。みんな減点されぬように、間違わぬように書くことばかり教わるもんだから、採点していて退屈するのである。そのせいで高校生になってからも相変わらず論述はろくに書けないままであるし、小論文も中学生の作文から成長がない。肝心なのは自ら書を読み考え、怠らずして己の知的鍛錬を重ねることだ。「書く力」を「充実した精神」という「内部」にではなく、「上手な方法」という「外部」に求めるのが間違いなのである。

また、少し前に中学生が卒業アルバムの寄せ書きを書いていたのを見たせいもあって、それとの対比が明瞭でもあった。まあアレコレ言っても仕方が無い。が、学生の字体に表れる精神年齢の低さ、言葉使いに見られる思想の欠如、そんなことを寂しく思わずにはいられない。

とは言っても、祖母は仙台空襲も経験していて、幼少期に戦争を知る人物である。そんな時代を生きた人間と現代の人間とは、それは違うに決まっている。たとえ現代学生の字体が情けないものであっても、思想が貧弱であっても、何も糾弾はできない。時代背景が違うのである。その時代背景とは、何も戦争の体験に限った話ではない。

今や、文字も手書きしない時代である。私はバイトの面接に行く都合上、履歴書を準備しなければならないわけだが、最近は全てネットで打って印刷ができるらしいことを知った。もちろん私はそんなことはしない。敢えて全て手書きする。

なぜなら、字は人格だからである。即ち文字を手書きすることは、そこに己の人格が投影されることであり、その文字と対面することはそのまま、己の人格と向き合うことに等しい意味を持つのである。しかし、今では文字は「書かれる」のではない。もはや「打たれる」ばかりである。これでは、己の人格を見つめる機会が日常からどんどん減っていってしまう。そこで、私は授業で敢えて論述ばかりを課していた。国立2次試験に国語が無く、共通テストのマーク塗り潰しでしか国語を使わない学生が多いのに。もちろん論述力が無いと選択式の試験でも点数は取れないわけだが、そんなどうでもいいことより、青年らの人格形成のために、文字を手書きする機会をなるべく多く与えてやらないといけないのである。もし私が1年間マーク式の問題ばかりをやらせていたら、彼らの精神年齢はこんなに上がっていなかったことと思う。精神年齢が上がらないと、いつまでたっても勉強はできるようにならない。

考えてみれば、全てが手書きであった時代もつい最近まであったわけだ。自分の手で書けば書くだけ、自分と向き合うことになる。祖母の世代なんかは、そんな手書きの経験を蓄積できたから精神年齢も高まり、そうして精神年齢が向上することでまた字体も人格的になっていったのだ。字と人格は、そういう往還関係にあるのである。

それにしても本当に、最近の学生は書かないなあと思う。板書を平気で写さない。そしてそれを「学習効果」の観点からしか議論しないから陳腐になる。「大事だと思ったことだけ書けばいい」だとか、「必要な情報だけメモする」だとか、まことにくだらない。学生だけならまだしも、大人までそんなことを言うもんだから、そういう人にはもう呆れて物も言えない。お前らは、そんな理屈でしか「書く」という行為を考えられないのか。書くこと“で”何になるか、ではなく、書くこと“が”何であるかを考えよ。書くことを単なる情報記録の手段にしてくれるな。


「黒板をスマホで撮っちゃいけないの?」なんて議論も教育関連のニュースにあがったりする。ほとんど反語の結論を導くその疑問文もまた、書くことを煩雑な手段としてみなす思考の表出である。撮影と書写を、どちらも情報記録のための手段として同一視しているのである。それならば、手間のかかる手書きよりも、ひと押しで済む写真の方が良いと結論付く道理だ。まあよろしい、「板書なんて写真撮ればいいじゃん」と言う奴は、いつまでも幼稚なガキのままで居続ければいい。そんな奴には精神年齢の向上も無ければ思考の発達も無い。

対面授業が軽視され映像授業や参考書学習が普及するようになった一因には、文字を手書きしない時代になったということがあると思う。そこには、「人格の消去」に基づくアナロジーが見て取れる。




わずかな時間で人間を見なければならない面接において、手書きの文字は、その人格を知らせる重要な存在である。企業は面接に際して、履歴書の手書きを義務付けよ。手書きの文字から人格をよく見よ。これはニートからの命令である。


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