早稲田卒ニート177日目〜修羅の琴のひきてなしに、自ら鳴る〜
「自」とは絶対性であり、その絶対性を由来とすることを「自由」という。
「何もしていない」はずなどない。走り回ったりあちこち触ったり、子供はほとんど一時たりとも止まることなどなく常に遊戯している。が、それは所詮大人から見た子供の世界像に過ぎない。子供が見ている子供の世界において子供は、確かに、「何もしていない」のである。そこには目的も強制も、それへの努力も屈服もありはしない。ただ「無為」であり、「無我無心」である。
すなわち、他の何ものにも服従せぬ絶対の自がいかなる努力や目的に対しても無自覚にそれを行って在るとき、"Nothing"とは、「無為」と訳されて構わぬ様な「東洋的自由」を意味していたのである。
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